1−2 初期における総動員態勢への動き

大正9年に陸軍きっての天才と言われた永田少佐が発表した総動員に関する報告書はその後の総力戦態勢整備の叩き台として大いに活用されることになったが実際はどうだったか。


第一次大戦においては連合国側の一員として一部参戦はしているものの主戦場は欧州であり、我が国をあげての戦争参加ということはなく、一部部隊の出動程度であり本大戦により露呈した総力戦に対する認識はさほど普及していなかった。
とはいえ陸軍においては大戦勃発とともに欧州に駐在する各大使館付武官だけでなく観戦武官として多くの人間を欧州に派遣し、大戦の実装把握に務めており、これをさらに強化するため、大正4年9月に「臨時軍事調査委員会」を設置しその任にあたらせ、以後調査結果が大正5年1月以降月報として報告されるようになった。
この調査研究の集大成ともいうべきものが、大正9年に陸軍きっての天才と言われた永田少佐が発表した総動員に関する報告書であり、その後の総力戦態勢整備の叩き台として大いに活用されることになったことからも、この委員会が我が国における総力戦態勢整備の始まりと言っていいだろう。
さて、委員会は国内においても少将1、佐官尉官及び同相当官26,判任文官14を陸軍省、参謀本部、各学校等に派遣し、その派遣先の所属の専門分野における総力戦に関連する事項について調査を行わせた。

これら調査報告により、第一次大戦が日露役以降戦争の形態がどのように変化したかを軍首脳にもたらしたわけであるが、とりわけ、交戦諸国の兵力の激増、火器火砲装備の向上、これに伴う弾薬消費量の激増、航空機、戦車等の新兵器の登場による戦術の変化が明らかとなり、編成装備の停滞していた陸軍に衝撃を与える結果となった。
こうした実情からも近代戦とは、総力戦的様相を呈し、単に軍隊の動員だけでは不十分であり、それを支える工業生産力の発展、各種資材供給源の確保など、国家総動員態勢の確立を急がなければならないことが判明した。


とりわけ国力においていまだ十分でない我が国にとって重要なものは工業生産力と資源確保問題であり、大正6年8月、当時参謀本部第二部第五課兵要地誌班長小磯国昭少佐が私案として「帝国国防資源」を作成した。
これは当時陸軍には平時・戦時を通じて戦争遂行に必要な国防資源の獲得とその国内への輸送及び、戦地前線への軍需物資輸送を管轄する組織がなく、準備もされていないことを指摘した。
戦時における軍需品の補給体制強化には平時より不足物資の算出を行い、その不足物資をいかなる地域から、いかなる方法をもって輸送するかを検討しておかなければならないとし、戦時における経済の重要性を謳っている。

また大正6年9月に、参謀本部総務部第一課(編成・動員)は、参謀次長田中義一中将の命により、第一次世界大戦における参戦諸国の動員計画調査と、日本の国情に適合する総力戦体制樹立計画の立案を行い、「全国動員計画必要の議」を完成させた。
内容として、今日の国防は、ただ交戦兵力を整備するだけではなくなったと指摘し、勝敗の分かれるところは平時蓄積された国力総量の多寡とその組織力が戦時の運用に適するかどうかにあるとして、我が国としてはさらに国力増強に努めるとともに、国勢を戦時の要求に応えられるよう組織する全国動員計画が必要であると提唱した。

こうした意見を受け、大正7年5月、陸軍省兵器局に工政課が、また海軍省艦政局に第六課が新設されそれぞれ軍需動員に関する事項を司ることになった。
そして陸軍は大正9年に「大正9年度陸軍軍需工業動員計画」を策定したのを初めとして、以後年度ごとに改正等を続けながらその実用化に努めていった。


国力の増進について責任を持つのは当然ながら政府であり、軍は政府と協力して、これら施策を実施していかなければならないが、まず大正7年4月に寺内内閣において軍需工業動員法が成立した。
これは毎年定期的に工場、事業場、輸送機関、軍需品、従業労働者の実態調査を実施し、必要な軍需産業の保護育成にあたることが目的であるが、なによりこの実態調査により戦時の際の物資調達計画を作成することが出来るようになったことが大きい。
さらに戦時においては、政府がこれらを管理・使用・収用・徴用することが定められていた。


続いて、大正9年5月、原内閣において軍需工業動員を統轄する「国勢院」が設置された。
これは大正7年に内閣に設置された軍需局と明治31年から設置されている内閣統計局が合併したものであり、政府として軍需動員を効率的に統制する中央機関となった。
しかし、いまだ総力戦に対する認識は広がらず、わずか3年後の大正11年11月にはこの国勢院は行政整理の一環として解体されることになった。
原因として他に、第一次世界大戦後の軍備縮小、反戦平和の風潮と、膨張した国家財政の緊縮といったものがある。
国勢院の廃止という事態を受け、陸海軍は「軍需工業動員協定委員会」を設けて資源配分の基礎を固めるとともに、双方の工業動員計画の参考にするようにしながら、国勢院に変わる新たな統制機関の設置に向け努力することとなった。



さて、国勢院廃止から軍部だけでなく官界においても物動統制の調査研究は続けられ、その中央統制機関の復活が急務であったがようやく昭和2年5月田中義一内閣において総理大臣管理下に資源局が設置された。
田中首相は参謀次長時代に全国動員計画必要の議を作らせたことは先に述べたとおりである。
この資源局は人的物的資源の統制運用、その計画設定と遂行に必要な調査と施策を担い、必要な法整備や計画設定処理要綱の検討等を実施し総動員体制への具体的な準備が行われていったのである。

そして昭和5年4月、政府方針に基づき、総動員計画会議を実施、関係各省庁を総動員する「暫定総動員計画」の作成を開始した。
しかしながら昭和6年9月に満州事変が勃発すると、国内は戦時体制への移行を余儀なくされ、この暫定計画は「応急総動員計画」に変更され、戦時における軍需品の供給を第一とするものになった。
また昭和6年3月に重要産業統制法が成立し国内産業、とりわけ重工業に対し補助金の配分増加や輸入資源割り当ての恩恵、さらにはカルテル結成による保護と合理化を進め生産規模の拡大を図った。


昭和12年5月にはそれまであった各省庁の総動員業務の調整を行っていた内閣調査局が企画庁に格上げされ、同年7月に日華事変が始まり、さらなる統制強化のため内閣資源局と企画庁を統合し、新たに企画院を設けて国家総動員計画の調整にあたった。
昭和13年5月には「国家総動員法」が施行され、軍需動員、国家総動員の法的根拠となった。
この法により、企画院にあった革新官僚らによる数々の政策が実施されていくわけであるが、生産の効率化だけでなく、各重要物資の配分を軍需優先で実施するようにし、日本は総動員体制に入っていった。

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