9−4.甲案・乙案の提出と米国の反応
11月7日、野村大使はハル国務長官と会談し、本国よりの訓令通りに説明しながら甲案を手交した。ハルは11月10日に全般的な問題について文書で回答しつつ、支那問題とこれまでの日本側の提案についての確認を行い、15日には通商無差別原則と経済政策について日米共同宣言の提案を行ってきた。
これは単なる時間稼ぎにすぎず、米国が示してきた内容は、従来のものと一寸違わぬものであり、野村大使自身もまた米国は日本に譲歩するより戦争を選ぶつもりだと察したのである。
既にハルは甲案はもちろん、その後に控えている乙案についても暗号解読で知っていたので、甲案には全く興味を持たなかった。
その証拠に我が方が始めて支那よりの撤兵期限を明言したにも関わらず、撤兵の規模のことのみ野村大使に確認するなど、当初より米国が一番関心高かった撤兵の時期については一言も触れていないのである。
翌日9割の撤兵と述べたにも関わらず、ハルは取り合わなかった。つまり日本側がどのような譲歩を示そうと、米国としては最初から相手にするつもりがなかったのである。
17日には野村大使だけでは心細いと政府は職業外交官である来栖大使を米国に派遣し、20日に両大使揃ってハルと会談し乙案を提示した。ハルは
「それは最後通牒だった。日本の提案は途方もないものであった」
と回想録で述べている。
乙案は先述の通り以前の状態に戻そうという趣旨のものであるが、なぜこれが最後通牒であるとハルは受け取ったのか。
それは暗号解読上の誤解に原因があった。
11月4日に東郷が野村大使に電報にて甲案を送付する際の説明文で「修正せる最後的譲歩案にて左記の通り緩和せるものなり」という文書を米国の暗号解読班は「修正せる最後通牒なり、左記の通り我が方の要求を緩和した」と訳したせいである。
また翌日の訓令では
「『タイムリミット』を附し、若しくは最後通牒的態度を取るが如き印象は之を避けたきにより、友好的折衝を以て、出来る限り速やかに交渉成立を期待するが如き態度を持たせらるる様致したし」
と提出にあたり注意を促したこの電文もやはり傍受されていたのであるが、これは国内情勢からなるべく早く米国側からの回答を得て、交渉の成果を少しでも示すことで開戦派を抑えるつもりで述べたまでである。
勝手に傍受解読して勝手に誤解していれば世話が無いのであるが、このお陰で日本が心血注いで作成した甲乙の両案は完全に否定されてしまったのである。
21日には来栖大使が単独でハル長官と会談し、三国同盟問題で重大な譲歩を示した。即ち米国の対独参戦に際しての日本の参戦判断は自主的に行うこと、他の締結国の解釈に拘束されるものではないことを記した書面を提示し、これにより日米交渉が促進されるならば即座に署名してハル長官に手交すると申し出たのである。
来栖は三国同盟を調印した正本人であり、彼がそう書いたものを米国が発表すればたちまち三国同盟は死文化し、また日独伊の関係は氷点に達するであろうが、あえてそれを覚悟で臨んだのである。
しかしハルはこの申し出を断った。
最初からハルは来栖を信用できる者だとは捉えておらず、また米政府内でも同様の印象を彼に持っていた。
例えば
「日本が来栖を派遣してきたのはアピールに失敗した東京が、今度は野村という虚像の看板に脅迫を組み合わせようとしている」
と当時ワシントンの日本大使館顧問であったF・モアーは述べている。
戦後の東京裁判で日本側弁護人であったブレークニー氏は
「国務省は乙案について対案を出すこともなく、日本側の説明に注意を払うこともなかった。専ら傍受電報の解読文を信じていた。(後略)」
と述べ、米国側の誠意無き対応を非難している。
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