9−3.甲案、乙案の作成


東條は先の連絡会議が議論を為さぬものになったことを踏まえて、議題の前提としてまず3案に分けることとした。

1)戦争を避け、最後まで現状で行く臥薪嘗胆する
2)直ちに開戦を決意し、政戦略の全てをこれに集中する。
3)外交交渉を続けるも、やむを得ざる場合は開戦とする。

当然ながら統帥部は第二案を、東郷らは第一案でるが統帥部が納得するはずもなく問題はいかに統帥部を説得し、第三案へ引っ張ってくるかということと、日米交渉の期限であった。
これを元に、11月1日の連絡会議は激論17時間に及んだ。
まず第一案は国家を自滅に導くものとして統帥部に真っ先に槍玉に上げられた上、鈴木企画院総裁からも物資面より不可能であると言われて却下された。統帥部は強く第二案を主張したが東郷外相が
「交渉の余地のあるうちに戦争に突入しては国民に対して相済まぬ」
と反論し、東條首相他、閣僚もこれに賛成したため、結果第三案が残り、以後第三案の具体的な協議に入った。

まず、この外交姿勢について統帥部が
「外交は作戦を妨害せぬこと」と暗に第二案を引きずる考えを披露したため東郷外相と賀屋蔵相より猛抗議された上、東條と東郷から
「外交と作戦は併行してやるのだから、外交が成功したら戦争発起は中止すること」
を強く主張され、完全に意見は対立してしまった。
さらに外交の期日を決める段となり、統帥部は11月30日としたところ東郷が
「期日など決められたら外交は出来ない」と突っぱね、それを助けるように東條は「12月1日にならないか。一日でも長く外交をやることはできぬか」と詰め寄ったが、塚田参謀次長はこれを断り、結局日米交渉は11月30日夜12時までと決定された。

この一件は皮肉にも軍人東條をして統帥権の独立というものが如何に強大なものであるかを思い知らされたのである。
しかし統帥部が開戦を急ぐ理由もまた一理あった。
当時グアム島やウェーキ島の要塞化が着々と進められ、さらにフィリピンにはマッカーサーが既に着任してフィリピン国軍の全指揮権を掌握し、当初防衛を諦めていたがB−17爆撃機が配置され、長期防衛の見通しが立ったこと、コレヒドール要塞の完成が目前であること等、我が国にとっては一刻の猶予もなかったというのは純粋な軍事的見地から見れば当然のことであった。


次に対米交渉案の検討に移り、ここで東郷が示した二つの案が甲案、乙案と呼ばれるものである。
まず甲案についての要旨は以下の通りである。

1. 通商無差別問題においては、無差別原則が全世界に通用されるのであれば太平洋全地域即ち支那においてもその適用を承認する。
2. 三国同盟による参戦義務が発生したかどうかの解釈はあくまで自主的に行う。
3. 支那駐兵は防共政策から概ね25年程度駐屯を続けるが、平和成立と同時に撤兵を開始し、2年以内に撤兵を完了する。
4. 仏領印度支那へ駐留している軍隊は支那事変の解決又は公正なる極東平和の確立と共に撤兵する。

1については米国の門戸開放主義を全世界に適用されるなら支那においても認めると譲歩したものである。
2については従来の主張通りである。
即ち米国が対独戦を開始したからと云って日本は自動的に対米参戦となることはないというものである。
3は期限を始めて明確に示したことで我が方が真摯に交渉による解決を望んでいることを示したかったのである。
これについては支那の都合など全く考えておらずいい加減なものと見る人もいるが、当時の支那の特殊事情を考慮すれば何ら不自然ではないものである。従来の我が国の主張からすれば米国案に最大限譲歩したものと言える。
最後に4であるが従来よりの主張通り、我が国が仏印に進駐しているのはひとえに支那事変解決の為であったから当然である。



次に乙案であるが、これは甲案で妥結に至らなかった場合に備え、交渉を継続するための暫定措置案として東郷や元外相の幣原喜重郎、それに元駐英大使の吉田茂らが作成したものである。
その要旨は、

1. 日米両国政府はいずれも仏印以外の南亜細亜及び南太平洋地域に武力進出を行はざることを確約す。
2. 日米両国政府は蘭領印度に於いても其の必要とする物資の獲得が保障せらるる様互いに協力するものとす。
3. 日米両政府は相互に通商関係を資産凍結前の情況に復帰すべし。南部仏印進駐の日本軍は北部へ移動し、米国政府は年100万トンの航空機用揮発油の対日供給を確約す。
4. 米国政府は日支両国の和平に関する努力に支障を与ふるが如き行動に出ざるべし。

このように乙案は日米間の基本問題を一応棚上げし、事態が決定的に悪化した南部仏印進駐以前の状態に戻して交渉をやり直そうというものであった。
こうして政府は甲乙両案と、新しい「帝国国策遂行要綱」を策定し散会した。新しい国策案は、


(1) 帝国は現下の危局を打開して自存自衛を完うし、大東亜の新秩序を建設する為、此の際米英蘭戦争を決意し左記措置を採る。
 1.武力発動の時期を十二月初頭と定め陸海軍は作戦準備を完整す。
 2.対米交渉は別紙要領に依り之を行う。
 3.独伊との提携強化を図る。
 4.武力発動の直前、泰との間に軍事的緊密関係を樹立す。
(2) 対米交渉が12月1日午前零時迄に成功すれば武力発動を中止す。

であった。
ちなみに開戦の決意とあるのはそのまま開戦とするわけではなく、別の廟議をもって決めるという意味である。
しかし外交最優先と決めていた東條にとってはショックは隠しきれず、2日夜に参内し、陛下に会議の経過と国策案の内奏を行った際、涙を流しつつ陛下に説明をした。これに対し陛下は
「事態が謂う如くであれば作戦準備もやむを得なかろうが、何とか極力日米交渉打開を計って貰いたい」
と沈痛な面持ちで述べられた。

11月5日に御前会議では原枢密院議長より妥結の見込みを訊ねられ、東郷は「1割以上の見込み立ち難し」と答えたのに対し、東條は「米国も両面作戦を避けたいであろうから4割位の成立の可能性があると思う」と述べ、どちらにせよ厳しい結果となることは全員が認識しつつも甲乙案と帝国国策遂行要綱が採択されたのである。

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