第9章 東条内閣と最後の日米交渉
東條内閣と言えば軍部独裁内閣であり明らかに戦争遂行の為の組閣であるという偏見が少なからずあるが、実際のところ対米交渉では最後まで望みをつなぎ、甲・乙の両案を策定したりと、積極的に外交を進めている。
また東條は在米日本資産凍結に対して、陸軍部内より現状打開するには武力発動しかないと詰め寄られた際、「準備はいいが、決意はまだ早い。尽くすべき手段は尽くすのだ」と一蹴し、武力行使を諫めた。
これらを考えれば安易に批判すべきではないと考えられる。
それでいて米国内で東條に対する風当たりが強いのはやはり真珠湾攻撃後の「リメンバー・パール・ハーバー」の大々的な宣伝によるものであろう。少なくとも日本人は東條を、そして東條内閣をこうした偏見の目で見てはならぬと考える所存である。
また陛下の信任も厚く「東條ほど朕の意見を直ちに実行に移した者はいない」と木下侍従次長に漏らされている。
9−1.東条内閣の成立
大命降下された東條であるが、本人にとってはまさに青天の霹靂とでも言う事態である。
東條が推された理由としては、皇族内閣は戦争を開始した内閣として国民の怨嗟の的となる恐れ有りとして流産させた木戸内府は毒を以て毒を制すの考えで東條にしたということである。
東條なら陸軍部内の少壮幕僚に多くいる主戦派を押さえ込むだけの手腕もあるし、陛下に対する忠誠は絶対であり、陛下より外交重視の指示が出れば全力でそれに傾注するであろうと判断したのである。
果たせるかな、組閣の大命と共に東條に対し「9月6日の御前会議決定にとらわれることなく、内外の情勢をさらに広く深く検討し、慎重なる考研を加うることを要す」との陛下よりの御諚が伝えられたのである。
つまり「十月上旬頃に至も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す」の白紙還元である。
実際東條は
「この御諚がなければ大命を受けなかったかもしれない」
と述べていることからいくら東條を以てしても陛下の御威光なしでは陸軍部内をまとめられる自信はなかったということであろう。
さて、これを受けて東條は早速組閣を開始したわけであるが、従来の東條の言動からは考えられない大胆な人事を断行した。
陸軍から提出された閣僚名簿を断り公正な閣僚を揃えようとし、特に外相には和戦派であり職業外交官である東郷茂徳を迎え入れたことは大きい。
東郷は内閣が外交主体で進むことの確認を求め、東條は御前会議決定の白紙還元と日米交渉打開を述べ東郷も外相を引き受けた。また和戦に決した場合の国内擾乱に備えて自ら内務大臣を兼任することにするなど、積極的に外交を進める意思が此処にも見える。
組閣後東條は精力的に連日連絡会議を開催し、激論を交わした。
第一回会議では永野軍令部総長より「海軍は毎時400トンの石油を消費」しており、事態は逼迫していること、杉山参謀総長もまた同様に時間の空費は許されぬとし開戦廟議の決断を迫った。
実際のところこのときの日本の備蓄石油量は減少の一途を辿っており、軍需・民需を合わせて年間約550トンを消費している現状から計算すれば昭和18年には底をつくという計算であった。
なにせ艦艇は、何もしていなくても石油を消費する、というのは艦内発電は当然石油で賄っているわけで、電気なければ生活さえ出来なくなるわけで欠かすわけにはいかない。
勿論途中で戦争になってしまった場合、作戦用の燃料も満足に調達できぬから、一方的な負け戦となることは明白で、開戦の時機は今でも遅いくらいであった。(*1)
さて当面の課題として日米交渉における支那よりの撤兵問題で議論は最高潮に達した。
東條はあらかじめ嶋田海相に日米不戦を明言してくれるよう暗に示していたが、海軍は従来通り動かなかった。
陸軍は支那よりの期限付撤兵など思いも寄らぬことであると反対していた。
特に参謀本部側と外相の撤兵期限の協議は延々と決まらず参謀本部の99年、外相は5年と互いに譲らず結局折半して25年ということに決したが、総じて陸軍は強硬ではあったが会議での検討態度は真摯であったことを戦後東郷は述べている。
東條は陸軍の強硬態度と海軍のともすれば政策に対し無関心な態度に内心忸怩たる思いを漂わせながらも妥協の途を模索していった。
こうした東條の方向転換について東條変節の声も陸軍部内から出たが、これはひとえに東條の皇室への忠誠心からの行動であり、いささかも迷いはなかったと言える。
■9−2へ進む
■大東亜戦争開戦の経緯へ戻る
■図書室へ戻る