8−3.近衛内閣総辞職
10月2日に待ちこがれていた米国側からの覚書がハル長官より野村大使に手交された。
しかしその内容は対日非難のみを書き綴ったものであり政府、特に近衛を失望させただけであった。
内容としてはハル四原則を厳守を再び主張し、日本は支那に不確定期間駐留しようとしていることや、三国同盟に対する立場をより一層明確に示すべきと要求し、首脳会談についてはやはり事前会談を行わねばならないと従来の米国の主張を繰り返したものに過ぎなかった。
我が政府内には悲観説が広まり東條は
「日本が忍び得ざる限度まで譲歩をして交渉成立に努力したが10月2日米国案を見ると、交渉開始以来一歩も譲歩の跡が見られない。日本は生存上の急迫した問題を解決しようとするのに対し米国は当初からの原則論に固辞するばかりであった」(*1)
と後に述懐し、野村大使もまた
「米国は・・寸毫も対日経済圧迫を緩めず、規定政策に向かって進みつつあることは最も注意すべきことであり、このまま対日経済戦を行いつつ武力戦を差し控えるに於いては、米国は戦わずして対日戦争目的を達成するものである」
とこの覚書によって米国の真意というものがだいたいの人には分かってしまった、米国は最初から戦争をする気であったということをである。
10月4日の連絡会議ではこの米国覚書を検討し、永野軍令部総長は「既に議論の余地はなし」と憤懣やるせない態度を露わにしたが、東條陸相は「この覚書に対する回答は慎重検討すべきである」と述べるなど、先の御前会議で示された陛下よりの外交重視の考えはまだ生きていた。特に東條は皇室に対する忠誠心は人一倍高いのでまさに「陛下の御納得いただけるまで」の覚悟で対米交渉を続けようとしたのであろう。
10月12日には近衛は荻窪の自宅で陸海大臣、外相、企画院総裁を招いて会談を行った。
この席で外相は陸軍が支那駐兵問題で譲歩すれば交渉の見込みが無いとも言えないと述べ、東條は「駐兵は陸軍の生命」であると反対、及川海相は和戦については首相に一任と逃げる次第でめいめいの意見は錯綜し、会談は不成功に終わってしまった。「駐兵は陸軍の生命」と東條が主張したことについて彼の考えは、
「仮に米国の要求通り支那から完全撤兵すれば四年有余の支那事変における日本の勢力と犠牲は空となるばかりか、日本が米国の強圧で無条件撤兵すれば支那の侮日思想は益々増長し共産党の抗日と相まって日華関係はさらに悪化し、第二、第三の支那事変が発生し、日本の威信失墜は満州と朝鮮にも及ぶであろう。日米交渉の難点はこの他に四原則承認、三国同盟の解釈、通商無差別問題等もあり、日米妥協は困難と思うが、外相に成功の確信があるなら再考しよう。また和戦の決定は統帥に重大関係があるので、総理に一任する訳にはゆかない」(*2)
であった。
10月14日に再び連絡会議が設けられ、ここで重大な閣内不一致に陥り近衛首相は退陣を余儀なくされた。
議論は当然対米交渉についてであるが、陸相が「外交交渉が必ず成功する確信があるなら戦争準備は止めてもいい」と述べれば外相が「交渉の中心は支那撤兵問題である」と反論、これに対し陸相は「総理は既に支那に対して無賠償、非併合を声明しているのだからせめて駐兵ぐらい当然」という有様で、まったく結論を見いだせぬまま散会となってしまい、荻窪会談と同じような展開となった。
東條の支那撤兵問題についての所信は当を得るものであるが、陸軍内部での中堅将校らはとにかく開戦という空気が濃厚であり、これをしっかり抑えなければ中途半端な対米交渉になるばかりか、陸軍だけで戦争へと引っ張っていってしまう恐れがあった為、武藤軍務局長は富田内閣書記官長を通して
「海軍は和戦について総理一任と言っているが、総理の裁断だけでは陸軍部内は抑えられない。然し海軍が戦争を欲せずと公式に陸軍にいってくれるなら陸軍としては部内を抑えやすいので、そう海軍側にし向けてほしい」
と海軍に伝えたが、海軍の岡軍務局長は
「海軍としては首相の裁断に一任というのが精一杯である」
と漏らした。海軍としては陸軍とは違って積極的に政争に関わらないというのが建前であったが、東條はこれを責任逃れと受け止め怒ったということである。
東條は会議後に鈴木企画院総裁を通して近衛に
「海軍大臣は戦争を欲しないようであるが、それなら何故自分にはっきり言ってくれないのか。海軍大臣からはっきり話があれば自分としても考えなければならない。しかるに海軍大臣は全責任を総理に負わせているが、これはまことに遺憾である。海軍の胆が決まらなければ9月6日の御前会議は根本的に覆るのだから、この際総辞職してもう一度案を練り直す以外ない」
と述べている。
対米戦は主体として海軍の戦争となるのは当然であり、もし海軍がやる気がないと正式に言えば、これは出来ないと言うことである。なのに海軍は態度を表明しないのはどういうことか、この非常時に何をためらっているのかと怒ったのである。
かような閣内不一致の状態では何も出来ないので総辞職するしかないと近衛に勧めたのである。
そして東條は後継首班について東久邇宮殿下を推薦した。
これは、陸軍部内を抑えつつ、さらに御前会議での政府・統帥部の決定を覆すのだから、政府がいくら再考を求めても統帥部が拒否する可能性は十分に考えられるわけで、東條は宮様を首相にすることで、これを乗り切るしかないと考えたのである。
どうにも行き詰まっていた近衛は翌15日に参内し、次期首班の内奏を行ったが、木戸内府が反対し、宮様内閣は実現ならぬまま翌16日に近衛内閣は総辞職となった。そして、組閣の大命は東條に降下したのである。
(*1)東京裁判での東條英機宣誓口供書より
(*2)同上 |
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