第8章 日米開戦への途

 8−1.帝国国策遂行要綱の採択

まとまる兆しの見えない対米交渉をこのまま続けるべきか、それとも見切りをつけて戦争に訴え現状を打開するかの選択に迫られた我が国は、9月3日の政府大本営連絡会議にて陸海軍案の「帝国国策遂行要綱」を採択した。
さて、要綱の骨子は

1) 帝国は自存自衛を全うする為対米戦争を辞せざる決意の下に、概ね10月下旬を目途として戦争準備を完整す。
2) 帝国は右に併行して、米英に対し外交の手段を尽くして帝国の要求貫徹に努む。対米交渉に於いて帝国の達成すべき最小限度の要求事項、並びに之に関連し帝国の約諾し得る限度は別紙の如し。
3) 前号外交交渉に依り十月上旬頃に至も尚我要求を貫徹し得る目途なき場合に於ては、直ちに対米開戦を決意す。

であった。ちなみに(3)は及川大臣が修正を発議し改められたもので、原案では「我要求を貫徹し得ざる場合」とあり、自動的に開戦となることを避ける為の修正であった。また「決意」と「開戦」は別の意味であり、実際に開戦するには別に廟議をもって決定することとなっていた。
ここにも政府は主戦論に完全に押されているわけではなく、冷静に外交での解決の途を模索していたことを示されている。即ち日本政府内はこのように対米戦を未だ完全に決意しておらず、外交交渉での解決、戦争回避を望んでいたのがわかり、米国のように首尾一貫した姿勢がなかったと言える。


ところで、「帝国国策遂行要綱」は御前会議に附されることとなり、御前会議の前日近衛首相ら要綱の説明の為に参内した。陛下は近衛の説明を受けられた後、陸海統帥部長を伴い再び要綱について御下問あらせられた。
昭和天皇陛下は平和ご愛好の精神をお持ち遊ばされており、外交交渉での解決を願っておられたのである。
要綱が対米戦を見越した内容であったため、これに対する追及は激しかった。

陛下は
「なによりもまず外交である。出来る限り平和的な外交でやるように。外交と戦争準備は併行せしめず、一と二を入れ替えるのがよい」
と前置きし、杉山参謀総長に御下問された。


陛下 「南方作戦は予定通りいくと考えているか」
杉山 「作戦は冬季に予定してますので北方方面に大した心配もなく専念できます。海軍との共同研究の結果からみますと、南方要域攻略作戦は大体5ヶ月で終わることができると考えております。なお出来る限りこの時日を短縮すべく努力いたします」
陛下 「予定通り進まないこともあろう」
杉山 「作戦なれば予定通りにいかぬこともあります。ただし陸海軍にて数回研究しております上の結論なので、大体予定の通り出来ると思います」
陛下 「上陸作戦がそんなに楽々と出来ると思うのか。敵の飛行機と潜水艦もいる」
杉山 「決して楽々とは思いませぬが陸海軍は常時訓練をしてきておりますのでまず出来ると思います」
陛下 「九州の上陸演習(*1)の時に、船が非常に沈んだではないか。ああなればどうか」
杉山 「あれは敵の飛行機を撃滅する前に船団の航行を始めたからでありまして、あのようにはならないと思います。」
陛下 「航空撃滅はできぬこともあろう」
杉山 「はい、しかし航空撃滅は1回というわけではありません。できるような時を選んで何度も実施することになります。」
陛下 「天候の障碍はどうするのか」
杉山 「はい、どんな障碍があろうと排除してやらねばなりません」
陛下 「本当に予定通り出来ると思っているのか。支那事変の初めに杉山が陸相のとき、閑院宮と一緒に報告し、蒋介石はすぐ参るからと速戦即決を主張したが果たして如何。いまになっても事変は長く続いているではないか。あれは考え違いなのか」
杉山 「一挙に事変を解決するよう申し上げ、まことに恐縮のほかはありません」 (*2)

と、指摘され、杉山総長はすっかりまいってしまった為、永野総長が代わってこう発言した。
「統帥部として大局より申し上げます。今日の日米関係は病人に例えれば、手術を要するしかない瀬戸際にきております。手術をしないでこのままにしておけば段々に衰弱してしまう恐れがあります。助かる望みもないではありません。まだ七、八分の見込みのあるうちに最期の決心をしなければなりませぬ。統帥部としてはあくまで外交交渉の成立を希望しますが、不成立の場合は思い切って手術しなければならんと存じます。」
さらに永野は
「戦争を好むというのではありません。この国策案は避くべからざる危機に対処するためのみのもので御座います。」
と述べて陛下が外交に重点を置くつもりかと念を押し、両統帥部長がそうである旨を答え、陛下のお怒りもようやく静まった。



翌日、日本の命運を決める御前会議が厳かに開催され、同じく杉山・永野が要綱の趣旨説明を行った。
続いて、原嘉道枢密院議長より「戦争が主で外交が従のようにもみえるが、政府・統帥部の趣旨を明瞭に承りたい」と陛下の意を汲む形で枢密院議長が質問をした。
これに対し及川古志郎海相が政府を代表して答弁し
「戦争の準備と外交はどちらも全力を尽くし、戦争については別に廟議で允裁を仰ぐべき」と述べた。
両統帥部長は何も答えなかったのだが、ここで前代未聞の出来事が起こった。慣例から御前会議では一切発言をしない陛下が突然御発言あらせられたのである。

「いまの原の質問はまことにもっともなことと思う。これに対し両統帥部長が一言も答弁しなかったのは甚だ遺憾である」
と述べた上、
「私は毎日明治天皇御製の ”四方の海 皆同胞と思ふ世に など波風の 立ち騒ぐらむ”を拝誦し大帝の平和御愛好の精神を紹述せんと努めている、どうか。」
と述べられ、満座粛然となった。
ようやく永野総長が立ち上がり、
「統帥部に対するお咎めは恐懼に耐えません。実は海相の答弁が全てを代表したものと存じ、独り合点しておりました次第であります。統帥部としましても外交を主とし、万やむを得ざる場合は戦争に訴うる・・」と回答しその場をしのいだのであるがさすがにこの異例の陛下の発言に際しこれは外交を妥結せよとの仰せであると感じ取ったのであるが、御前会議はこのまま終了し、採択されたのである。


なぜ主権者である天皇が戦争反対の意思を持ちながらそれを主張しなかったか、それは天皇が立憲君主であり専制君主ではなかったこと、また昭和天皇陛下は皇太子時代の英国留学にて英国王室の「君臨すれども、統治せず」の考えに深く感銘を抱かれ、最高権力者と言われている天皇であるが実際の統治は内閣に任せていた。
自らが親任した閣僚の決定に反対するのは矛盾がある、責任だけとればよいという考えであったのだ。
天皇の本来の仕事は政ではなく祭事であり、ただ国民の安寧を願っておられる存在なのである。


だが昭和大帝陛下も少なくとも2度は明白な意思表示を行ったこともある。
一つは二・二六事件の際に断固として蹶起部隊鎮圧を主張された。これは一時的にせよ帝都内が騒乱状態であったこと、鎮圧すべき軍内部でも同調者が少なからぬ居たことにより、
「朕自ら近衛師団を率いてこれが鎮圧に当たらん」とまで言わせたのである。非常時における君主の大権は現在でも英国王室に認められているし問題はないであろう。
しかしそれでも陛下はやはり行きすぎたかもしれないと御反省遊ばされ、以後政治への介入はさらに控えるようになった。しかし、もう一度天皇にしか出来ない決断を迫られるに至り、意思表示をされたのが終戦時の御前会議である。
周知の通り大東亜戦争は天皇の聖断により終結した。徹底抗戦派を抑え、さらに終戦にあたり帝国陸海軍人がさしたる混乱なく銃を置いたのはひとえに天皇の力であり、天皇が居なければ内戦となり、事態の収拾どころではなくなっていたであろう。


ところで、9月6日の御前会議も君主として意思表示を行わねばならなかったのではないかということであるが、少なくとも事前に両統帥部長と近衛首相に自らの意思を伝えているし、
「開戦は別の廟議で決定」とあった為、その時期ではないとお考え遊ばされたのではないかと考える。しかしそれでも陛下は先述のように歌を詠みなんとか和平をと自らの意思を表明せざるを得なかったのである。

会議後、武藤章軍務局長は国策案の立案者である石井大佐に
「これは何でもかんでも外交を妥結せよとの仰せだ。一つ大いに外交をやらにゃいけない」
と述べさらに
「俺は情勢を達観しておる。これは結局戦争になる外ない。だが大臣や参謀総長が天子様に押しつけて戦争に持っていったのではいけない。天子様が御自分から御心の底からこれはどうしても止むを得ぬと御諦めになって、御納得の行くまで手を打たねばならぬ。だから外交を一生懸命やって、これでもいけないというところまで以て行かぬといけない」
と以後武藤は海軍の岡軍務局長と連携して対米外交の推進に全力を尽くすようになった。


(*1)昭和16年4月に行われた海軍の実戦演習
(*2)半藤一利著『指揮官と参謀』119項〜123項

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