第7章 南部仏印進駐と日米首脳会談
さて、第三次近衛内閣組閣にあたって、問題となった外相に商工大臣であった豊田貞次郎海軍大将が就任した。
豊田大将はかねてより「日米の衝突は極力避けねばならない」と主張していたため、近衛首相は彼を外相に起用し、日米関係の修復に努めんとしたのである。
豊田新外相は就任に当たり各国駐在大使に向け、従来の方針堅持の考えを伝えたがこれは陸軍から次の三箇条が持ち出され機先を制せられたからである。
1.「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」の堅持
2.南方・北方戦備の遅滞無き実施
3.日米国交調整において三国同盟に抵触しないこと
就任直後から釘を刺された豊田外相であるが、対米交渉では支那駐兵、三国同盟問題でどの程度の讓歩をするかにかかってると考え、条件付撤退と三国同盟の事実上の形骸化を狙っていた。
それはオットー独駐日大使には冷淡な応対をし、グルー米駐日大使には好意的に接したところに現れている。
しかしこの豊田の努力も南部仏印進駐に対する予想外の米国の報復措置によって成果を挙げることが出来なくなってしまった。
それでは日本にとっての南部仏印進駐の意義と米英の受け止め方を考えてみる。
7−1.南部仏印協定進駐
日米通商航海条約破棄からずっと続いている経済封鎖、これにより近代国家として最も重要である石油資源の供給が不安定となり、これが安定確保を求めて我が国はオランダ領インドネシアとの交渉を続けていたが先述のように米英の介入により、日蘭経済交渉は難航していた。
既にABCD包囲陣に我が国は抑えられつつあった。
かかる現状を打破せんがため、政府は連絡会議にて「南方施策促進に関する件」を採択し、これを元に仏印との軍事協定を結び、現在北部に進駐している軍をさらに南部へ進駐させんとした。
それでは、なぜ南部へ進駐せねばならなかったのかを考えてみると、第一に支那事変解決の為の援蒋ルート遮斷が挙げられる。
何度も述べるように支那事変は未だ解決の樣相を見せず、武漢三鎭陷落後も蒋介石はさらに内陸部に反抗拠点を築きながら、米英の軍事・経済援助を得て頑強に抵抗していた。
当初の見通しでは短期終結であったが、陸軍の見通しの甘さと、米英が支那事変をもって日本の足かせとしようと援助を続けたことで、泥沼化に陷っていたのである。
もう一つの理由として同地及び南方は石油資源・鉱物資源の宝庫でもあり、ここを米英に抑えられてしまうと完全に我が国は干上がってしまうのを恐れたことである。
既に仏印・タイは昭和15年以降より米英の圧力から、日本及び円ブロック圏内に対する米殼とゴムの輸出規制を行っており、我が方が憂慮するに充分な下地があったのである。同地はビシー政府の管理下にあるとは言え、軍事的には空白地帯に等しく、且つ亦タイも事実上の英国支配を受けており、いつ米英が進駐してくるかわからない情勢であった。
既に米国は大西洋においてグリーンランドやアイスランドへ進駐しており、この事実もまた我が国を不安に陷らせる原因となったのである。
さて、仏印との交渉に戻り、日本側要求を見てみれば次の条件を出している。
1.仏印の共同防衞を目的とする軍事協力
2.必要数の日本軍の南部仏印への派兵
3.サイゴン以下八カ所の空軍基地の使用
4.サイゴン、カムラン湾の海軍基地の使用
米英は当然の如くフランス政府に回答を故意に遅らせるよう圧力をかけたが、フランス政府は7月21日に、
・我が軍の駐屯が一時的なものであること。
・フランスの主權を尊重することを日本が確約すること。
という条件下で受諾すると表明しこれに対し我が国も応じ、南部仏印に対する進駐を平和的に断行したのである。
当時の日本は軍国主義で侵略に侵略を重ねたという史観が萬延しているが、事実をみる限り、明らかに合法的且つ亦道義的に進駐を行っていることがわかる。
武力進出が出来るにも関わらず、これを行わずに仏政府の主權を尊重するなどの条件を認めつつ慎重に行動した理由としては、米英を必要以上に刺激してはならないという配慮があったと見える。
さて、我が国の進駐に対し米国は異常な早さで非難声明を出すとともに、制裁に乗り出した。
翌日に米国政府は新聞にて
「日本政府のとった処置は、フィリピン群島を含めた太平洋地域の安全を危険にさらしている。我が政府と国民は、かかる進展を国の安全保障に極めて重大なる問題を及ぼすものと深く認識するものである。」
と発表すると共に、在米日本資産の凍結並びに8月1日には石油全面禁輸措置をとり翌日英蘭も同調し、今まで細々ながら供給をつづけていた低オクタン価ガソリンも完全に遮断し、遂に日本は石油が一滴も入ってこなくなり、国内備蓄燃料のみとなってしまった。
この石油禁輸措置は妥当なものであったのか。
ルーズベルト自身これが戦争の引き金となることは充分承知しており、それを知りながらあえて断行したものだと見える。
その証拠としてルーズベルトは禁輸に際し、スターク海軍作戦部長に意見を求めたところ、スタークは
「禁輸は日本のマレー、蘭印、フィリピンに対する攻撃を誘発し、直ちに米国を戦争に巻き込む結果となろう」
と述べていた。
また米海軍からは
「現在建造中の海軍艦艇が揃うまで開戦を伸ばしてほしい。経済制裁は延期すべきで、そのような行動をとればかなり早い時期に日本の攻撃を招くであろう」
と忠告を受けていた。
さらに特筆すべきは南部仏印進駐の真意の説明に訪れた野村大使に対し、
「これまで日本に石油を供給するのは太平洋の平和のために必要だと国民を説得してきたが、この情況では余は従来の論拠を失いもはや太平洋を平和的に使用できなくなる」
と述べたことである。
これはルーズベルト自ら「石油禁輸を行うことは太平洋に戦争を起こさせる」という認識を持っていたことを暴露するものである。
米国は南部仏印進駐を南方進出の第一歩と捉え、禁輸措置に踏み切ったと見る説もあるが、日本に南方進出をさせる為に禁輸に踏み切ったと見るのが妥当ではないかと考えるものである。
さて、国務長官のハルはこの南部仏印進駐に対し、
「彼らは公然たる非友好的な行為を修飾するために、平和と友好という嘘と詐欺的な言葉を使うのである。これは彼らが前進の準備ができるまでそうするのである。(中略)。彼らを止めることが出来るのは軍事力をおいて他にない。重要なのはヨーロッパにおける軍事問題に結論が出るまで、その状況をうまく扱うことのできる期間である」
と部下のウェルズ国務次官に話している。
つまり日本が協定に基づいて平和的に進駐したのは諸外国を欺くための手段に過ぎず、日本を止めるには武力を以て叩く以外ない。
しかしまだ欧州戦線の情勢が不安定なので、こちらが片づくまで如何に日本を外交交渉をもってあやしておくかが問題であるということであろう。
端的に言えば日本が欧米の権益を尊重しながら自存の為なんとか活路を見いだそうと四苦八苦している事情を完全否定した上、武力つまり戦争をもって日本を潰すという傲慢な態度をとり、さらに米国の開戦準備が整うまで或いは米国世論が対日戦に納得する時間を稼ぐという意味であろう。
また上記ハルの言葉前段の「彼らが前進の準備ができるまで」という言葉は明らかに誤解である。
石油を始め各種工業農業資源の供給を絶たれた日本は最早現状を維持することさえままならぬ状態であり、まさにジリ貧そのものであった。我が国は最期まで日米の和解に望みを託して交渉を続け、開戦を遅らせた。
日本にとっては戦機はかなり早い時点にあったのに、なんとか和解をと既に対日戦を決意していた米国と交渉を続けたことになる。
■7−2へ進む
■大東亜戦争開戦の経緯へ戻る
■図書室へ戻る