6−3.独ソ開戦と松岡外相更迭

6月21日に米国から修正案に対する正式回答があった。この案を見ると、

欧州戦へ自衛の為にのみ参戦し、日本は三国同盟を欧州戦に適用しないことの確認。
対支那政策では米国が中国政府との仲介に立つという姿勢をとりながらも援蒋ルートの廃止や南京政府と重慶政府の合流などは一切盛り込まれていなかった。
南方問題は日米両国とも平和的手段によりその必要とする資源を得られるよう協力すること、すなわちハル四原則の一つである平和的手段によらぬ限り太平洋の現状不変更を挙げている。

さらにこの米国案には名前こそ出さぬものの暗に松岡を非難する口述書(オーラル・ステートメント)が添えられていたことが松岡を激怒させた。
即ち
「不幸にして政府の有力な地位にある日本の指導者の中には、国家社会主義のドイツ及びその征服政策の支持を要望する進路に対し抜き差しならぬ誓約を与えおる者あること・・(後略)」と述べられていたのである。
さらに翌22日には独ソ戦が開始され、松岡構想は根底から崩壊し、この時点で松岡の枢軸外交は幕を閉じたと言っても過言ではない。


松岡はこの口述書に対し、7月10日の第38回連絡会議の席上で
「野村は自分と親しい間柄であるが、こんな無礼千万なるオーラル・ステートメントを取り次ぐがごときは、これぞ不届き千万である。内閣改造の如きを世界的に強大なる日本に対して要求したのを黙って聞いているとは実に驚きいった次第である」
と怒りを露わにし翌々日の会議では陸軍の反対をも抑えて強硬に件の口述書の撤回を求め、しかる後に日本案を提出すべきと突き上げ、撤回なければ日米交渉はこれまでとまで述べた。
松岡の憤慨ももっともなのであるが、問題はこれだけではなかった。

松岡は独ソ戦開戦にあたり、我が国も三国同盟に基づいて参戦すべきと主張するようになった。
もとより陸軍、とりわけ参謀本部内は北進論であり、日ソ中立条約が如きは精神的に安心感を得たのみで未だソ連に対する脅威は薄らいではいなかったのである。
しかし陸軍は支那事変に於いて現有49個師団のうち27個師団を投入しており、新たに北方で作戦行動をとることは非現実的であった。開戦直後よりドイツ側からは参戦要請が届いているのであるが、我が国はこれに即答せず、連絡会議を開き、対応を協議していた。



会議は6月25日から四日間に渡り開催され、海軍は南進を主張したが、海軍の本音は南部仏印進駐をもって南方進出は終了とするものであったが、陸軍の北進論に対抗する手前から南方進出の足がかりと主張したまでである。何より北進が正式決定すれば今後の予算や物資配分で陸軍優先となるのは目に見えていたからである。
それはともかく、この会議席上で松岡が即時対ソ参戦論を唱えたことが一番の問題であり、
「先ず北をやり、次いで南方をやり、この間支那事変を処理する」という構想を打ち上げたが、これにはほぼ全員が反対した。
その三日後の席上では一度決まった国策案を蒸し返し南部仏印進駐の6ヶ月延期を提議した。
これはリッペントロップ外相が
「独ソ戦は予想以上の快進撃で短期終結確実で日本は参戦の機会を逃すべきでない」と述べたと大島駐独大使が報告し、これに動かされたようである。
もとより大島大使の発言は彼がナチシンパであったことから誇張の感は否めなかったが、少なくともこの時期に於いては事実を湾曲するほどのものではなかった。松岡は、
「吾輩は数年先の予言をして的中せぬことはない。南に手を着ければ大事になると吾輩は予言する。それを統帥部長はないと保障できるか、南部仏印に進駐すれば石油、ゴム、錫、米など皆入手困難になる。英雄は頭を転向する。吾輩は先般南進論を述べたるも今度は北方に転向する次第なり」
と述べるに至った。確かに南に手を着ければのくだりは松岡の指摘通りであった。
南部仏印進駐こそ日米交渉における重大なキーポイントとなったことは言うまでもない。


しかし最終的には7月2日に開催された御前会議で採決された
「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」に於いて北進・南進を併記しながらも、南進はかねてよりの日本の自存自衛上必要不可欠としほぼ劃定事項であった。
しかし対ソ戦は現状を鑑みて独ソ戦の経過を見ながら戦備を整えつつ時機を待つとし、つまり当面の独ソ戦不介入を決定したのである。(*1)

強硬に即時対ソ参戦を主張するなど、重大な閣内不一致が生じ、ことここに至っては内閣総辞職か、外相更迭しかないと近衛首相らは考えるに至るのである。

独ソ戦の方針が固まるも、日米交渉に於いては先述の松岡外相を批判する口述書問題は未解決であった。
政府は7月12日の連絡会議を受けて7月14日に撤回要求と日本側回答案を打電することになった。
もとよりこれは松岡の意に反して同時に送信されたのであるが、これに対し16日ハル長官はあっさりと撤回に応じ、松岡は満足そうであったが、その日のうちに近衛首相は内閣総辞職を断行した。勿論目的は松岡外相を外すことであった。
結果としてハル長官の言い分が通った形となったのである。

(*1)「情勢の推移に伴ふ帝国国策要綱」より一部抜粋

 ・独ソ戦に対しては三国枢軸の精神を基調とするも暫く之に介入することなく 密かに対ソ武力的準備を整え自主的に対処す此の間固より周密なる用意を以 って外交交渉を行う

 ・独ソ戦争の推移帝国の為有利に進展せば武力を行使し北方の安定を確保す


 この方針に伴い陸軍は大規模な動員を行い関東軍の増強に乗り出し、対ソ武力発動に備え約80万の人員を関東軍特種演習の名の下に集結し始めたが、結局独ソ戦において独軍が敗勢に転じ、予想された程の極東ソ連軍の西部戦線への抽出による兵力減少が見られなかったことで現実には武力発動は見送られる結果となる。

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