日米了解案はすぐに野村大使の電文と共に本国へ打電された。
しかし此の時野村はなぜかハル四原則を添附しなかったのである。
当然ながらこれを受け取った近衛は完全にこれを米国案と思いこみ、閣議でこれを米国案として紹介し、一同は驚愕したのである。
何しろその中には日本軍の支那からの撤兵や、同領土の非併合、非賠償、門戸開放の復活など米国側の主張を挙げている一方で、我が方の要求である蒋介石・汪精衛政権の合流、満州国の承認や日米首脳会談の開催、日米通商関係の回復という内容が含まれていたのであるから、歓迎しないはずがない。
武藤章軍務局長も賛成し、東條陸相は東京裁判の宣誓口供書にて
「連絡会議(*1)の空気はこの案を見て、問題解決の一の曙光を認め、ある気軽さを感じました」
と述懐した。
当然即座に米国に対し「主義上(原則)賛成」の電報を発するべしとの声が上がったが、昭和16年3月12日より松岡外相は訪欧中で近衛は松岡の帰国を待って返答するとし、松岡に帰国命令を発したのである。
ちなみに近衛首相が誤解した理由についてであるが、もとより野村大使がハル四原則を添附していなかったこともあるし、電文にも誤解の原因がある。野村大使の電文は以下の通りである。
「本16日国務長官と私邸に於いて会談。長官より別電二三四号(了解案と仮称す。本了解案についてはかねてより内面工作を行い米国政府側の賛意を「サウンド」し居りたる処、「ハル」長官に於いても代替之に異議なき旨確かめ得たるに依り本使においても内密に関与し種々折衝せしめたる結果本案を約したるものなり)に依り交渉を進めて宜しく政府の訓令を得られたき旨申し出あり。長官は貴使との間の話が進みたる後東京より否認さることあらば米政府の立場は困難となるをもって斯くしたしと申せり」
一見すると、確かに了解案をもとに米政府と交渉を進めるための訓令を欲するというニュアンスで受け取れなくもない。
逆に文末を見るとこの案が否認されれば米政府の立場はないなどと、まるでこの案を否認することは米政府案の否認に等しいようなことも述べている。
岩畔によればこの了解案に関する電報を起草したのは若杉公使で、同公使は「了解案は米側の起案であるように改変した方が本国政府の意見をまとめるのに好都合」であると判断しそのように電文を改めたという説がある。
さて松岡は訪欧中、ドイツ・イタリア・ソ連を相次いで訪問していた。
かねてよりの彼の構想である四国協商体制をもって米国との交渉にあたるためである。
ドイツ滞在の時リッペントロップ外相より独ソ関係の破綻を知らされてはいたが、松岡はそれを信じず、モスクワでは日ソ中立条約を成立させた。
さらに駐ソ米国大使のスタインハートと2度にわたって会談を行ってルーズベルト大統領への伝言を託している。
そして、近衛首相から米国から重要な提案が来ていると連絡を受けた時、スタインハート工作についての返事が来たのかと勘違いた松岡は4月22日の帰国後に全く違う筋の話であることを知らされ大いに機嫌を悪くしたようで、その夜急遽開催された閣議に酔って出席した。松岡は了解案について非常に冷淡で、
「米国は第一次大戦中に石井・ランシング協定を結んでおきながら、戦争が終わるとこれを破棄した。これが米国の常套手段であり、了解案も悪意が七分、善意が三分だ」
と即断し自らの訪欧の成果を語ると早々と退席してしまった。
松岡としては自らの構想が実現できればもっと有利な展開が望めると見たのか、少なくとも自らが行った工作の結果を待ちたかったのであろう。
この態度に閣僚は失望し、対米強硬と言われていた東條や武藤らも「即時受諾」の返信を打つべきと主張していた為、松岡に対しひどく憤慨し、陸海軍の間より外相更迭論が飛び出す始末であった。
5月3日の連絡会議では松岡三原則を提唱し、了解案の修正を行った。
松岡三原則は
1.支那事変に貢献すること。
2.三国条約に抵触せざること。
3.国際信義を破らぬこと。
であり、これをもとに大修正を行い、5月12日に野村大使は日米了解案に対する修正案をハル長官に手渡した。
主な修正点を挙げれば欧州戦に対しては日米が調停を試みること、三国同盟の軍事上の義務については「積極的に攻撃を受けた場合のみ」から「同条約第3条の規定通り」とし支那事変については了解案の文面を削除し近衛三原則や日満支共同宣言の原則通りと改めた。さらに首脳会談については全面削除とした。
これは会談が不調に終われば非常に危険な情勢になるとの松岡の見解であった。
松岡がこのように米国に対して常に強気であたるのは彼の10年近くに及ぶ米国生活中に身を以て「米国は強い者を尊敬し、弱い者を馬鹿にする」ことを感じ取ったからであり、こちらが下手に出ても何もまとまらないと考えたのであろう。
(*1)大本営政府連絡会議の意。準戦時体制への移行に伴い統帥機構としての大本営と、国務等の政戦略の統合調整のための大本営政府連絡会議が設けられた。この連絡会議は法制上のものではなく、政府と統帥部の申し合わせにより成立したものであったが、連絡会議の構成員がその決定事項を国家的良心において、そのまま各々の職責に即して、忠実に実行した。会議の構成員は、時により、また議案の内容によって若干の変更はあったが、不動のメンバーとしては政府側から首相・外相・陸相・海相・が出席し、統帥部側からは参謀総長・軍令部総長の計6名であった。このほか蔵相および企画院総裁も加わり、第二次近衛内閣では平沼大臣も特に加えられたこともあった。