第2編 日米交渉

日米交渉は日本あるいは米国の謀略であったのか。
つまり戦争を決意してから時間を得たり戦備を整えたり開戦の口実を得たりするための外交交渉ではなかったのかという問題である。
日本の大橋外務次官は
「彼らアメリカの謀略家が太平洋の裏門から米国を戦争に引きずり込むため、当初からいささかの誠意も持たず、会議を遷延せしめ、日本に石油がなくなった頃を見計らって誰が考えても受諾不可能の条件をつきつけて、日本に戦争の火蓋を切らした手口は巧妙であった。」
と述べ、戦後の東京裁判でパル判事は
「攻撃直前に米国国務省が日本政府に送ったものと同じような通牒を受け取った場合、モナコやルクセンブルグ大公国さえも合衆国に対して鉾をとって立ち上がったであろう」
と米国の交渉姿勢を断罪する一方、米国のウェルズ国務長官は
「野村提督の大使としての任命は遮蔽物であったということを私は信じて来たし、今もその意見を変えていない」
と述べている。


日米交渉の経緯を追いながらどちらの意見がより客観的であるか見てみたい。

第6章 日米了解案を巡って
  
6−1.日米了解案の作成

日米了解案の作成は昭和15年11月25日にメリノール派の二人の神父が来日したことに始まる。
彼らの来日の目的は表向きは日本国内でのカソリック布教情況の視察であったが、実の目的はある二人の日本人への紹介状をもとに、日米関係打開の工作を行うことであった。

彼らはまず元大蔵官吏の井川忠雄と沢田節蔵と接触し、二人の紹介により松岡外相ら政府要人や武藤章軍務局長ら軍幹部とも面会をし、日米交渉の土台となるべき案を携えて帰国し、これを「日本提案」として米政府に覚書を提出した。

もとよりこの時点で松岡らは日米交渉の発端になるほどではないと考えていて「日本陸軍を漸進的に支那より撤収することを条件に日米間の話し合いを行う」という程度の内容であり、且つ亦、日本政府内で協議されたものではなく、政府案と呼べるものではなかったが、件の二人はハル長官やルーズベルト大統領らに「日本提案」として提出してしまった錯誤があった。


この後松岡外相は空席となっていた駐米大使に知古である野村吉三郎海軍大将を起用し、これに続いて井川自身もが渡米した。
これに伴い
「支那問題に明るい人物を陸軍から出してほしい」との野村の要望に陸軍省軍事課長の岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐も米国入りすることとなった。
さて、この人事については諸説があり、まず野村大将は実はそれほどルーズベルト大統領と親しいわけでもなく、英語力もさほどではない。彼自身固辞していたようだ。
また岩畔大佐は
「謀略の岩畔」の異名を持ち、陸軍登戸研究所や陸軍中野学校の創設に関わる人物で、当時より交渉役として適当か否かは議論があった。
一説によれば当時の軍務局長武藤章との折り合いがつかず、目障りであった岩畔を東條陸相が米国に飛ばしたという話もあり、的確な人選であったか確かに疑問が残る。
しかし彼が交渉中は一切謀略的行為を行わなかったことは、彼を入国から出国まで監視していたFBIの捜査により判明している。
兎も角もこうして日米了解案を巡る人物らが揃ったのである。



ニューヨークに到着した井川は先の二人の神父と再会し、次のような原則的協定案を作成し、件の聖職者の背後にいたウォーカー郵政長官を経て昭和16年3月13日にハル国務長官に報告された。
この協定案は井川と神父の一人ドラウトが作成したもので、日本政府に何ら了承を得たものではなかった。

さてその内容は、

 1.三国同盟からの日本の脱退
 2.太平洋の平和の保障
 3.支那の門戸開放
 4.支那における政治的安定
 5.軍事的・政治的侵略の不可
 6.経済的・財政的協定の締結
 7.日本郵船の使用
 8.ドイツへの全ての物資の供給停止
 9.共産主義の拡大阻止
 10.ルーズベルト大統領とハル国務長官とによって確認された原則に基づく日本との協定締結

であり、これらについて現在詳細を検討中とウォーカーはハルに報告したのである。
翌日には野村大使がルーズベルト大統領の正式に会談したが、ルーズベルトはしきりに三国同盟を批判し、また日本の南進についても南方にある資源は米国にとっても重要であると述べ、まだまだ日米間の溝が深いことを確認したのみであった。
岩畔大佐が3月末に米国に到着し、先に井川とドラウトが作成した協定案を見たが、これに反対し、再びドラウトを交えて協議することとなった。
井川は正式な権限があったわけでもなく、また出国前に井川と岩畔は
「岩畔が協定案作成の中心を担い、井川は通訳を担当する」と事前に申し合わせてあった為である。
こうして4月5日に草案が完成し、野村大使や大使館員、そしてウォーカー郵政長官に届けられた。
そこにはドラウトが
「もし日本が三国同盟から抜けるならば、日ソ戦争が起こった時にアメリカは日本を援助する」
という一文を入れたとも言われており、驚くべき内容であった。

これを受けた米国側はウォーカーから先、どこまで届いたかは不明なれど、ハル長官の手元に届いたのは確実である。
二日後には双方がもちよって第二次案の作成に入り、9日に完成した。
これをさらに国務省極東部で検討を加えた上で4月16日に
「日米了解案」の最終案が完成したのである。
もとよりハル長官は主に日本ペースで作成されたこの案に不満であり、またこの了解案は正式な日本案でもなければ米国案でもなかった。
双方の言い分を盛り込んだだけで、これからの交渉で問題点を調整していこうという程度のものだった。
そこでハルは以下に掲げる
「ハル四原則」を日本側が受諾するという前提のもとに、了解案を尊重し、これを日米交渉の基礎とすることを野村大使に話した。

 −ハル四原則−
  1.全ての国家の領土保全と主権尊重
   2.他国に対する内政不干渉
   3.通商を含めた機会均等
   4.平和的手段によらぬ限り太平洋の現状維持

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