5−2.米英可分論から不可分論へ

この可分論・不可分論は以前より日本の進路に重大な影響を与え、争点となった問題で概ね陸軍は可分論、海軍は不可分論に傾いていたと見ることができる。
陸軍の一部は北部仏印進駐をさらに進め、南部へ、そしてさらに液体燃料確保の為に蘭印も東亜新秩序圏への加入を狙っていた。
その際、英領シンガポールや香港は同地の要衛であり、ここを放置して南方との経済協力は不可能であったため、どうしてもこれを攻略せねばならない。
もし英国を攻撃したら米国は我が国に参戦してくるか否かというのが本問題点であり、可分論をとる陸軍は戦争相手を英国または蘭に絞り込める為勝算はあるとしたのである。
これをもとに昭和15年7月27日に大本営政府連絡会議で
「世界情勢の推移に伴う時局処理要綱」が採択されている。


この要綱では支那事変の解決を第一にし、また好機を求めて南方進出としていたが、次のような一文もある。
「武力行使に当たりては戦争対手を極力英国のみに局限するに努む。但し此の場合に於いても対米開戦は之を避け得ざることあるべきを以て之が準備に遺憾なきを期す。」
陸軍は可分論によって、対英戦はともかく対米戦を積極的に推すような動きは見られなかったし、海軍もまた彼我の国力差等から開戦には反対であった為、どちらも対米開戦の意思はなかったと言える。
しかし、海軍は不可分論により南方進出は米国との戦争になるとの認識があり、本処理案に基づき、8月24日の上奏を経て出師準備を開始し、11月15日には正式発動され着々と対米戦の準備を進めた。もとよりこれは時局処理案があまりにも可分論に偏り過ぎていて、このまま南進を行えば戦備が整わぬ内に対英蘭開戦となる上、対米開戦ともなってしまうのを恐れたのである。


既にこの頃には山本五十六連合艦隊司令長官により海軍内は米英不可分論で一致していた。
11月26日と28日に行われた海軍図上演習にて伏見宮軍令部総長に次のように進言した。


「1.米国の戦備が余程遅れ、又英国の対独作戦が著しく不利ならざる限り、蘭印作戦に着手すれば早期対米開戦必至となり、英国は追随し結局蘭印作戦半途に於いて対蘭、米、英数カ国作戦に発展するの算極めて大なる故に、少なくとも其覚悟と充分なる戦備とを以てするに非ざれば、南方作戦に着手すべからず。
2.右の如き情況を覚悟してなお開戦のやむなしとすれば、むしろ最初より対米作戦を決意し、比島攻略を先にし、以て作戦線の短縮、作戦実施の確実を図るにしかず。蘭印作戦は其資源獲得にあり、之を平和手段にて解決し得ざるは米英のバックあればなり。もし米英が到底立たずと見れば蘭印は我要求に聴従する筈なり。故に蘭印との開戦やむなき情勢となるは即ち米、英、蘭数カ国作戦となるべきは当然なり。・・・(後略)」

これに対し、伏見宮軍令部総長、及川海軍大臣も同意し、海軍内部は山本司令長官の不可分論に統一されたのである。
第二項にあるように対米作戦を決意せざるを得なかった山本司令長官が開戦劈頭に敵主力艦撃滅を行い米海軍並びに米国民の士気を喪失させることを目標に真珠湾攻撃の構想を練り始めたのはこの頃からであった。


海軍が日米戦を憂いて南方武力行使に乗り気でないことは何度も述べたが、陸軍内部においてもこうした海軍の態度により慎重論を唱える部署もあった。
陸軍省戦備課は昭和16年2月から3月にかけて

  1.南方武力行使を行い対米英長期持久戦になった場合
  2.このまま現状維持した場合の推移
の視点から国力判断を行い、その報告によれば
「帝国は速やかに対蘭印交渉を促進して、東亜自給圏の確立に邁進すると共に、無益の対米刺激を避け、最後まで英米ブロックの資源に依り国力を培養しつつ、あらゆる事態に即応し得る準備を整えることが肝要である」
と結論づけた。
しかしこの日蘭交渉は先述の通り失敗に終わるのである。

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