第5章 交渉直前の日米の対内外問題
  5−1 日独伊三国軍事同盟締結とその影響

米英と敵対するようになった日本は既に国際連盟より脱退していたので、ますます孤立を深めることとなった。
となれば、同じく米英と対立関係にあった枢軸側に日本が接近したとしても何らおかしくはない。
しかも枢軸の独伊は日本と同じく
「持たざる国」であり、若干の違いこそあれ、同類とも言えた。枢軸側がヴェルサイユ体制下における米英を基本とした平和主義に反旗を翻すのも、現状打開を望んでいたからである。


しかしこの交渉も簡単にはまとまらなかった。
先に締結されていた日独伊三国防共協定の強化は日本としても支那事変解決の見地から賛成であったが、続いて三国同盟案がドイツ側から提示されるとその同盟の対象を巡って陸軍と海軍で意見対立が起こりドイツ・イタリアへの回答が遅れている間に、欧州では独ソ不可侵条約が締結され、我が国はこれをドイツの背信行為であるとし、交渉を打ち切り、対独不信が一時的にせよ広まった。

これに伴い「欧州天地は複雑怪奇・・・」と言葉を残して平沼内閣は総辞職し、阿部内閣が組閣された。

阿部は組閣の大命降下の際に陛下より
「外交は米英と協調する方針をとること」と御沙汰を受け、外交方針は大きく変更された。
外相に任命された野村吉三郎海軍大将は破棄された日米通商航海条約に代わる新条約の締結に邁進したが、米国側から誠意ある回答は得られず、米英との関係も結局改善されぬばかりか日独関係も最悪の事態を迎え、日本がまさに孤立していた時期と言える。
既に米国は昭和15年にルーズベルト米大統領が太平洋艦隊の母港を西海岸のサンディエゴからハワイへ前進させ、事実上米国の植民地であったフィリッピンの航空兵力を拡充し、着々と戦争準備を進めていたのである。



かかる米英の圧力が増大する一方でナチスドイツが欧州にて猛攻を加え、各地を占領しつつある現下において国民世論から反米英と共に親枢軸の気勢が揚がってきて、遂に米内内閣を総辞職に追い込ませた。
続く第二次近衛内閣は再び親枢軸路線をとることとし、松岡が外相に復帰し、ドイツとの交渉を再開した。
松岡をはじめ近衛首相も独伊と提携することで日米交渉において有利な展開を狙いつつ、ドイツに盲従するのではなく、時には米英に協調することも念頭に置きながら対独交渉を続けた。
これは先のドイツ不信もあるが、ドイツが対米参戦防止の為に日本と手を組みたいと考えていると見たからである。
事実ドイツの英本土上陸作戦が進展を見せず、長期戦の様相を見せ始めた頃から対日接近が見られたのである。


かくして三国同盟は締結されたが、日本の目的はあくまで支那事変の解決と、それに伴う日米交渉の成功にあり、決して対米戦を念頭に置いた同盟ではなく、ドイツもまた対米戦は対英戦が勝利に終わるまでは考えていなかったようである。
また松岡は強硬な反共主義者であったが独伊の他にソ連と組んで米国と交渉する他ないと考えていた。
所謂
「力の外交」であるが、こうした構想を持って三国同盟に望んだ松岡も突如の独ソ戦開始によりあっけなく瓦解してしまった。
政治は結果が全てというならば確かに戦後糾弾されたように松岡の三国同盟推進は誤りであったと言える。
しかし当時独ソ戦を予見するのは不可能に等しくまた、日本がとるべき道は他になかったとも言える。
松岡の真意は御前会議にてこう述べらている。

「日米国交は最早礼儀又は親善希求等の態度を以て改善するの余地は殆どないと思われますのみならず、却って悪化さすだけの事ではあるまいかと懸念せらるる有様となって参りました。
若し幾分にても之を改善し、又は此の上の悪化を防ぐ手段ありとすれば、唯毅然たる態度を採ると云う事しか、此の際の措置として残って居ないと存じます。
しかりとすれば、其の毅然たる態度を強むる為に一国にても多くの国と堅く提携し、かつその事実を一日にても速やかに中外に宣明周知せしむることによりて、米国に対抗することが外交上喫緊時であると信ずるのであります。
しかし本大臣はかかる措置の反響ないし効果を注視しつつ、尚米国との国交を転換するの機会は、之を見逃さない用意を常に怠らない覚悟でございます。・・(後略)。」


松岡の構想がよくわかる言葉である。
しかし、日本が独伊と同盟をしたのは米国との関係改善を目的とした事情は米国に伝わらなかったことが最大の不幸であり、日米の緊張はますます高まっていったのである。

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