4−3.北部仏印進駐
首都南京陥落後も蒋介石は内陸部重慶に反抗拠点を築き、事態は泥沼化していた。
日本は第三国による支那側への軍事経済援助を断ち切らねば、事態は改善されぬと考え所謂「援蒋ルート」の遮断に躍起であった。
当時我が国は米英仏ソ等による「援蒋ルート」を概ね次のように分析していた。
*西北ルート(外蒙ウランバートル経由) 月:500d
*ビルマルート 月:10,000d
*仏印ルート 月:15,000d
*中南支沿岸ルート(上海・香港経由) 月:6,000d
この内の支那沿岸のルートは我が海軍が押さえていたので密輸という扱いである。
表にあるように仏印ルートやビルマルートは蒋介石政権にとって非常に重要なものであったことがわかる。
仏印ルートについては支那事変勃発直後より、我が国はフランス政府に申し入れるも様々な口実をつけて拒絶し、援助を続けていた。
欧州にてヒトラー率いるナチスドイツがフランスを占領するに至り、ようやく仏印総督は援助停止を行い、密輸防止の為に日本軍の監視団の派遣も容認するに至った。
この後に、カトルー仏印総督は支那に対する共同防衛を目的とする同盟を提言してきたため、我が国は援蒋ルートの完全遮断と事変解決の為に仏印側と交渉を続け、第二次近衛内閣時に松岡外相とアンリ駐日フランス大使との間で協定が成立した。
協定の骨子は以下の通りである。
・仏印の領土保全と仏印に対するフランスの主権を尊重すること。
・日本への軍事的便宜供与は支那事変解決の為の臨時的なもので、解決と共に消滅すること。
・便宜供与はフランス軍の管理下に行われること。
・日本軍の存在や行為で仏印が敵軍から被害を受けた場合、日本政府が賠償すること。
などであった。
軍部の一部将校らからは既にフランス本国が占領下にあるのにこれほど譲歩する必要はないという空気もあったが、政府と軍中央部は無用に他列国を刺激することは望まなかった。
かくして我が軍はフランスとの合意の上でフランス領インドシナへ進駐したのである。
しかし本協定に対し米国は「現状を破壊し、かつ威圧により達成された行為」と断定し、日仏印協定不承認声明を行うと共に、10月16日に屑鉄・屑鋼及び屑銅の全面輸出禁止に踏み切ることを発表し、益々日米間の緊張は高まった。
さらに英国も先に我が国との交渉で一時停止の協定を結んで自粛していたビルマルートを通じた支那側への軍事援助を一方的に再開するに至った。
後の大東亜戦争中のインパール作戦の目標の一つが援蒋ルートの遮断であったが、なぜそれにこだわるのか理由がわかるであろう。
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