第4章 経済制裁の始まり
4−1.日米通商航海条約の破棄
米英がかかる対立を背景に対日経済制裁を検討し始めたのは昭和13年末頃であった。
まず米国は翌年1月に航空機及び部品の道義的禁輸を行い、さらに対日クレジット禁止を行った。
英国との関係では、事変勃発以来の英国による支那の援護や対日非難で緊張が高まっていた中、天津の英租界地で親日派である中華民国臨時政府の海関監督が暗殺される事件が発生し、その犯人引き渡しを英国側が拒否した為、日本軍は同地を封鎖した。
これを巡り昭和14年7月に日英で会談が行われ、英国側が日本に対し譲歩する形で決着した。(有田・クレーギー協定)
しかしこうした英国の態度に不満を持つ米国は、有田・クレーギー協定締結4日後に日米通商航海条約の廃棄を通告してきたのである。
我が国は周知の通り資源に乏しく、石油を初め各種工業原料の多くを米国からの輸入に頼っていた為、重大な衝撃を受けた。
つまり条約廃棄後は米国はいつでも対日貿易を合法的に制限できるようになるからである。
しかし両国間に広まった溝は容易には埋まらず、代わりとなる新条約締結の可能性も無きまま6ヶ月後の昭和15年1月26日に廃棄された。
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