3−2.米国の極東政策

さて、門戸開放の建前から支那側を援助する米国とそれと敵対する我が国の関係が悪化するのは当然であった。
しかし、支那事変時まで米国や他の列強諸国は日本に対して積極的な国際干渉を行うことはなかった。
これは欧州でヒトラーが強力な権力の下にオーストリアやチェコの併合などの事件があったため、日支問題に介入する余裕はなかったからである。


イギリスにとっては、事変の起きた時機は財政的政治的危機という緊急状態の中にあり、極東問題に介入する余地はなかった。
米国もまた1937年度の主な関心の中に極東問題は含まれていなかった。国内問題とヨーロッパ問題で忙殺していたからである。

また不景気のこの時代に直接利害の離れた問題で日本と関わり合う危険を犯したくはなかったとも考えられる。
これは昭和12年の上海事変が全面戦闘に発展し、支那が連盟に提訴した際にベルギーのブリュッセルで行われた九カ国条約国会議での英米の態度は甚だ消極的で対日制裁には至らなかったことで証明されていると言えよう。



支那事変に対し米国はハル国務長官の「中道政策」を採用した。
つまり米国としては現段階で太平洋において正面からの日米衝突は望ましくないとし間接的に支那を援助し影響力を残すに止めた。

その理由として
 1)満州事変で米国は東亜における無力を自覚したこと
 2)支那事変は局部的に終わるものと予想したこと。
 3)米国内の孤立主義によって積極行動が抑止されたこと。
 4)列強が米国と共同行動する見込みがなかったこと。
 5)対日貿易が対華貿易よりも米国にとって有利であったこと。
が、考えられている。

特に5番目の対華貿易と対日貿易の比較をしてみると、米国と支那との貿易は決して大きくなく、それは外国貿易全体の4%に達したことはなかく、1861年より1938年まで対支貿易は全体の約3%に過ぎなかったが、日本との貿易は約5%超であった。
ちなみにカナダを含む対英貿易は40%以上であった。
これから考えられることは米国の支那に対する関心は貿易の利益からではないということである。


では何かというと、米国が4億の人口の持つ将来的な市場としての魅力に惹かれたことも考えられなくはないが、米国としては経済的見地からではなく、政治的或いは軍事的見地から対支援助を行っていたと言える。
すなわち米国は日本に対する支那の抵抗を鼓舞し、支那の戦争遂行を助けることで、支那を日本の足かせにしようと狙ったのである。
また支那の将来性を考えるに現状を座視すれば日本が将来の対支貿易の指導的地位に立つのは必定であり、これを防ごうとした狙いも多分にある。

米国の対華借款の履歴を見ると
  1938年12月:2500万ドル
  1940年3月:2000万ドル
  1940年9月:2500万ドル
  1940年11月:1億ドル
と、次々と対支援助を行っている。
まさしく米国の借款は支那を戦争に留めておくための政治的策略として時期に合わされたものであった。


そんな中、ルーズベルト大統領は昭和12年10月5日に有名な「隔離演説」を行い、日本非難を行った。
これに対し米世論は
「大統領は米国民を世界大戦の道へ連れていこうとしてるのか」と反対論が台頭した。かような米国における孤立主義は南京攻略戦の際に起こったパネー号事件後さらに強くなり、中には門戸開放政策を放棄せよとする論調さえ現れていた。一部軍人や政治家の中には日本が支那という足かせをはめられている今こそ対日戦争の好機であると主張する輩も居たが、米世論は圧倒的に避戦の態度をとっていた。ここに政府と世論の乖離が見られる。

こうした米国民が後に対日経済制裁運動や日本製品不買運動に走らせたのは米国内に散在する共産分子や支那で布教するプロテスタント宣教師とその関係団体が支那贔屓から日本非難を各地で続け、世論を誘導していったという説がある。

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