蘆溝橋にて支那共産分子の謀略により、日本と支那が戦闘状態となってしまい日本としてはやむを得ぬ戦であった。
現地での速やかなる停戦協定締結が望まれたが、支那側に誠意が全くなく、あまつさえ通州事件が起こるに至り、国内世論はここに沸騰し政府も支那への追加派兵を行わざるを得なくなったのである。
支那側の侮日がここに来て目立つようになったのは、昭和11年11月に内蒙古の王族である徳王率いる軍勢が支那軍と衝突した綏遠(すいえん)事件にて、内蒙軍が大敗した際、支那側は内蒙軍の背後に関東軍ありと非難し、抗日気勢を高める一方、結果的に大勝したことから「関東軍与し易し」と勝手に誤解したことが、後々の侮日の発端とも考えられる。
当然ながら綏遠事件の際、我が関東軍は一兵たりとも動かしていなかった。
兎も角その後支那軍は第一次上海事変時に結ばれた停戦協定を無視して、上海に大軍を送り、遂に日本軍に対し本格攻撃を開始し、全面戦闘が始まったのである。