2−2.満州国建国と連盟脱退

事変後支那は日本を国際連盟に提訴し、対して我が国も事変に対する声明文を発表し、全面的に争う形となった。
日本は満州に領土的野心は持っていないというのがその声明の趣旨で、確かに日本は満州を武力併合できるだけの力を持っていながら、同地を独立国としたことからその趣旨が全くの虚偽であるとは言えないだろう。
日本としては領土ではなく経済圏としての満州を必要としていたからである。
しかしながら、日本に敵対するような国が出来てしまっては、当初の目的である満州での権益維持が望めなくなるため、新政府と日本は密接に関わらなければならない。こうした事情から、後世に「満州は日本の傀儡国家である」と云われる所以があると推察されよう。


さて、こうした一連の動きを国際社会ではどう捉えていたのか。


米は満州事変に対し、支那における門戸開放、機会均等の原則に反するとし反対した。
いわゆるスチムソンドクトリン(不承認主義)と云われるものである。
スチムソンドクトリンは先の門戸開放主義をもとに1915年の日本が支那に対し
「二十一ヵ条要求」をした際、ブライアン国務長官が考えたものである。
これに対し、英修道博士は
「時によっては主義の擁護者たる栄誉を求めんとし、また時によっては実質的利益に均霑を獲んとするのが真相なるに拘わらず、米国の対満活動の進退のほとんどが門戸開放・機会均等と云う美しき標識に結びつけられて説明され、しかも多くの場合、第三者にあたかも自国が被害者かの如き立場を感ぜしめるのは畢竟米国の対満外交が擬装に巧妙なるためである」
と反論している。
やはり持てる国と持たざる国の余裕の差であろうか。


一方、提訴を受けた連盟は9月30日に日本軍の速やかなる撤退を決議したが、日本としては対支情勢が甚だ不安定な為到底受け入れることはできず、まず日支の関係回復が先であるとした。
先に述べたように事変の遠因の一つに支那の暴虐があったのは事実であるから、当然と言えば当然である。
在留日本人の安全確保がまず第一である。

さらに現地調査委員会としてリットン調査団が日本や支那や満州各地を歴訪して調査にあたったのはご存知のことであるが、その報告書を見てみると

「日本はアジア大陸に緩衝地帯を作ることで本土を守ろうとした。満州国、蒙古、華北は陸路連絡線とともに自然の対ソ防衛第一線を形成している」

など、他にも満州の赤化を憂慮する日本の立場を理解している声明も出している。
しかし日本の立場をもってくれる報告は少なかった・・・・が、その中でも次の一文は注目に値する。


「・・・(前略)本紛争は一国が国際連盟規約の提供する調停の機会を予め十分に利用し尽くすことなくして他の一国に宣戦を布告せるが如き事件にあらず。また一国の国境が隣接国の武装軍隊により侵略せられたるが如き簡単なる事件にもあらず。何となれば満州に於いては世界の他の部分に於いて正確なる類例の存ぜざる幾多の特殊事態をあるを以てなり」

つまり事変は「侵略」ではないとしている。
それほどまでに満州の事情は複雑であり、単に日本が領土欲から強奪したという見解がいかに歴史を湾曲しているかうかがえる。


こうした中、翌昭和7年3月1日に満州国政府は建国宣言をし、日本政府は直ちに日満議定書を締結し、これをもって念願の満州問題の解決に至った。
しかし連盟総会ではリットン報告書をもとに、満州の主権は支那に属すと判断し、日本軍は撤兵せよという勧告を行い、この決議案が42対1(棄権1)で採択され、我が代表は席を立った。
これがもとで後に日本は国際連盟を脱退したのであるが、
この模様はラジオや新聞を通じて国民に伝わり、帰国した松岡代表は熱烈な喝采を受けた。
これはいかに国民各層から満州事変が支持されていたかを表していると言えよう。
日本としては米英諸外国が日本の特殊な立場を理解しないことに憤ったのであり、連盟脱退を非難するような声はなかったのである。
第一次大戦後の体制維持を望む米英諸外国と、それを打破したい我が国が相容れないのは当然のことである。
後に同じ境遇の独伊と我が国が手を結ぶことになるのはこうした理由があった。

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