第2章 満州事変

 2−1.満州事変と日本

日米が戦火を交えるようになった原因の一つに両国の対支那問題があった。
当時列強の多くは亜細亜に植民地を持っており、それぞれ各国の思惑が絡み合い、紛争の火種となるには十分な下地が出来ていた。問題の満州事変が関東軍の一部将校らによって画策されたものであるのは現在では周知の事実であるが、なぜそうなったのか考えてみる。
ちなみに問題となる関東軍は大正8年4月に旅順に司令部が設置されて以来、ずっと租借地警備の任務にあたってきた。
目的が警備であるからその兵力も僅か独立守備隊6個大隊、砲兵1個大隊、あとは内地から一年交代で派遣される歩兵1個師団のみであり、攻勢作戦を行うつもりは毛頭なかったと言える。
後に「無敵関東軍」などと呼ばれ大兵力を擁するようになるのは満州国建国後のことである。


当時の日本にとって満州とは何だったのか。なぜ満州にこだわる必要があったのかをまず考えてみることとしたい。
事変の起こった1931年の我が国の情勢は、極めて逼迫していた。それは軍事面より、経済面が特にひどかった。
経済面で見てみると、第一次大戦の特需は既に過去となり、1929年ニューヨークに端を発する世界恐慌の煽りを受けて景気の悪化は深刻であった。
列強各国は自己の植民地をさらに固めてブロック経済圏を形成し、関税障壁により輸出は停滞。
特に日本の外貨獲得の担い手であった生糸の価格暴落は国民生活そのものに深刻なダメージを与えた。
日本は朝鮮併合により同地を得ていたが、まだインフラ整備の段階であり、景気回復に貢献する経済力をつけるのはまだまだ先の話である。
後進国日本としては新たな市場を得なければならない、支那にも権益をもってはいるが、既に列強各国の進出が激しく、新たに我が国が入り込む余地はない。そこで目を付けたのが満州である。
これが一般的な見方であるが、歴史的に見ても我が国と満州のつながりは大きい。


過ぐる日露役で多数の英霊の尊い犠牲の下に満州をロシアの圧制から救い、荒野に鉄道を敷設し、各種インフラ整備を行いつつ、関東軍が常に目を光らせ治安維持を図っていた。
おかげで、ロシアの南進に怯えることなく民衆は安心して暮らせるようになった。
支那内乱で逃げてきた漢民族も多くこの地に流れてきた。辛亥革命当時は1800万人であった人口が、事変当時には3000万人に達していたのである。
日本によって満州の発展が叶ったことはリットン報告書でも認められている。
こうした日本による殖産は、1915年の日華条約で確約された日本人の南満州での土地商業租借権に基づいて行われ何ら問題はない。
これら苦難を経て形成された権益は「特殊権益」と日本では呼んだ。これは地理的近接の問題だけではなく、歴史的感情をも含んでいる用語である。


では、なぜ現状維持せず、実力行使を行わねばならなかったのであろうか。
大きな要因の一つに支那の排日運動による日本人の憤慨を誘ったことにある。
満州は易幟後に赤化した国民党の勢力が支配するに至りさかんに反日運動を展開していた。
それ以前より奉天軍閥による侮日・排日は激しく、日本人を対象とした暴行・略奪・放火などは耐えなかった。かかる侮日政策から既に関東軍一部将校らは奉天軍閥の首領である張作霖を爆殺している。
居留民の安全を確保するためにもなんとかして反日運動を止めるよう支那中央政府に要求しても同政府の支配の及ばないところとなっていたのである。
加うるに中共は満州へ着々と進出し、日本がもっとも恐れる全支那の赤化が現実問題となってきていた。
支那が赤化すれば次はどこか、火を見るより明らかである。この赤化に対する恐怖も一因である。先述の張学良の易幟の際、既に赤旗も混じっていたというのだから我が国が危機感をつのらせるのも道理であろう。


さて、不景気に加えて在支・在満権益を放棄するわけにはいかず、なんとしても維持したい日本と、不平等条約改正・権益の回復などを要求する民族運動に押され革命外交を進める支那、外交筋での解決はいよいよ困難となってきた。
例えば、日本のドル箱であった満鉄の経営は反日に転じた張学良が条約違反(*1)を犯しつつ開設した満鉄平行線と恐慌により経営は悪化してしまった。


また、支那側の徹底した反日政策により、いくつもの事件が勃発した。
日本製品不買運動や、日本人が経営する商店に対する悪質な嫌がらせなどは後を絶たず、さらには中村大尉事件や万宝山事件が発生し、事態を決定的段階に追いやった。
中村大尉事件は参謀本部中村震太郎大尉が井杉騎兵曹長と若干名を連れて地誌調査の為に興安嶺に向かった際、現地の支那軍に捕らえられて処刑され、遺体は証拠隠滅のため焼かれた事件である。
この事実を知った関東軍は憤激しこれを機に武力発動と考えたが、幣原外相ら政府は許さず外交ルートを通じての解決を図った。
しかし支那側は事件を認めず、あまつさえ支那側新聞はこの事件はまったくの事実無根で捏造されたものと報道した。
この支那側の態度に軍部はもとより国民世論も「暴戻支那を断固膺懲すべし」の声が高まり、当時の満州は事実上交戦一歩手前であったと云われている。
最後には支那側はこの事件を認めたが、それは事変の起こった日のことであった。


軍事面で見てみると、やはり対ソの脅威が挙げられよう。
昭和3年を第一期として発足した5ヶ年計画によるソ連工業力の飛躍的増強、そしてソ連軍の外蒙古への進出や極東軍の軍備増強など、我が国が見過ごせない情勢となりつつあったのである。
日露役以降、帝国陸軍は仮想敵国をソ連と明確に定め、精鋭関東軍を大陸に編成したのも、全てソ連に対する脅威からである。
そこで日本・満州・朝鮮を一体とした国防経済圏を建設し、将来の対ソ戦に備えようとしたのである。


関東軍作戦参謀石原莞爾中佐はこれに支那をも加えていこうと考えていた。石原は次の戦争は白人対有色人の人種戦争になると見ていたからである。
そこで亜細亜人で手を結んで、ソ連やアメリカなどの白人国家に備えるための国力をつけたいと考えていたのである。
だから事変を起こしてまで対ソに備えた。
ちなみに石原がその後の陸軍の支那進出に反対したのも全てこの考えが根底にあるからである。軍部内には少壮幕僚らが声高に国家改造を叫び、後の二・二六事件の伏線とも言える情勢であった。
しかし日本の窮状打開には満蒙進出を優先させるべきで、それが完成されれば、国内問題は自然に解決出来ると考えていた。
石原構想によれば、まず関東軍が満蒙を軍事占領してここを日本の領土とし、朝鮮・台湾と同様総督制を布いて、その支配下に簡単な軍政を行い、日本政府による干渉は極力避けて、日本・支那・朝鮮三民族の自由競争による新天地の発展を期待するというものだった。


陸軍中央部でも陸軍省と参謀本部が共同して、昭和6年6月ごろから対満蒙政策の研究を開始し、8月ごろにはその結論を下した。内容は満蒙問題の武力解決という点では関東軍のそれと同じだったが、解決の時期については関東軍がすぐ着手するというのに対して、軍中央部は向こう一年間隠忍自重するという点が違っていた。
いずれにしても昭和6,7年が満蒙問題の最大の危機だということはほぼ決定的となった。
一方現地の満州では鋭い対立感情に燃える日支両国民、そして日支両軍の間に大小無数の衝突事件が発生した。
そして昭和5年になると、現地での日中間の危機は頂点に達し、奉天総領事の森島守人をして「あたかも噴火直前の休火山の麓にいて、爆発を心配し、時限爆弾を抱いているような気持ち」にさせたのだった。そこへ件の事件が発生したのである。


かくして事変は勃発したのである。
満州事変の経過については本稿では割愛させていただく。


さて、事変が一応の終結を見せたのは、関東軍による匪賊討伐と、満州を追われた張学領の反満・反日を掲げる義勇軍を万里の長城内に追い払うこと、さらに侮日態度をとる支那軍を敗走させたことで、塘沽停戦協定が結ばれ、ここに満州問題の一応の解決は出来たのである。
ただし、これは一時的なものであり、また日本と支那においてのことであり、英米とはその権益問題から解決の道は見いだせなかった。

(*1)「露支旅大租借条約追加協定第三条」
日本は日露役の結果この特権を継承した上さらに明確にするため「日清満州に関する条約付属取極第三条」で平行線禁止を約締している。

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