10−3.ハル・ノートの検証
明治以来の我が国の対外政策の全てを否定したことは先述の通りであるが、では具体的にハル・ノートについて検証をしてみたい。
一番の問題となったのは、上記(3)と(4)の文言である。
まずは(4)についてであるが、暴支膺懲を掲げ戦闘を続けていた我が国にとって、まさに重慶政府、即ち蒋介石への謝罪に等しく、即ち蘆溝橋に始まる日支両軍の衝突はひとえに支那側の侮日姿勢から発生したものであるのになぜ我が方が折れなくてはならないのか。もし我が方が謝罪すればますます反日の気運は高まり日支関係は最悪の事態となることは皆一致した憂慮であった。
しかも「重慶政府のみ承認」となれば、親日である汪政権を否定するばかりでなく後述する満州問題にも発展していくのである。
次に(3)では仏印は兎も角、全支那よりの撤兵はまるで乱暴であり、居留民保護の為の警察力の為の駐兵さえも認められていなく、それは即ち軍隊だけでなく全日本人居留民の追放に他ならない。そして「全支那」というのは満州をも含むのかという重要問題である。
これについては、ハル自身は野村・来栖両大使との会談の時明言はしなかったが、政府は満州も含まれると解釈し、自分もまたそうであると考える。その理由として(4)にて重慶政府以外の政府は認めないとしているのは満州国政府をも否定するという意味なのではないかということである。実は25日案(我が国に提出されたもの)の一つ前の22日案では満州について明言されていたのである。
即ち
「日本政府のとるべき措置」として「1.全ての陸海空及び警察力を中国(満州を除く)及び印度支那より撤収すること」
とあったのだ。25日案ではこの部分がそっくり削られたのである。少なくとも満州が保障されていれば日本側もこれを最後通牒とは受け止めなかったと思われる。
なぜこの文言を削除したか、これは暫定協定案に対する支那の猛烈な反発に考慮したこと、或いはこの条項を削除することでハル・ノートをより強硬且つ非妥結的な性格に変える意図があったのではないかと考えられる。誤解を十分に招く文書でありながらハルは一切説明をしていないし、やはりハル・ノートを最後通牒として日本に叩き付けたと見るのが妥当であろう。
話を戻して、12月1日の御前会議でも当然この問題は取り上げられ、原枢密院議長より
「支那という字句の中には満州も含む意味なのか」
と質問し、東郷外相は4月の日米了解案、もとよりこれは米国案ではないのだがこれを持ち出してこう述べた。
「支那に満州を含むや否やにつきましては、もともと4月16日米提案のなかに満州国を承認すると云うことがありますので、支那にはこれを含まぬわけですが、話が今度のように逆転して重慶政権を唯一の政権と認めて汪政権を潰すという様に進んできたことから考えますと、前言を否認するかも知れぬと思います。」
軍部もまた支那に満州が含まれると解釈しており、最早戦争しかないと考えていた。
そこで注意したいのは、日本としては満州国独立以来満州は支那の領土ではないと主張してきたのに、なぜ政府や軍部は支那の字句の中に満州が含まれると解釈したのかということである。これはやはり米国は最初から満州国を否認しており、当然ながら満州は支那に含まれると考えていたので、米側の要求にある「支那」の中には当然満州も含まれるのだという先入観が日本の政府・軍高官の間に蔓延していたと見るのが妥当であろう。
ある意味日本側の誤解の部分があったとも受け止められるが、米国としてはこの誤解を狙っていたのではないかと考えられる。根拠としては先述のように米側22日案には存在していた満州条項を25日案では削除していたことの説明がつかないのである。米側が支那に満州が含まれないというのは当然だと考えて削除したとは到底考えられない。
総じて見れば、九カ国条約の即時履行を迫るものであり、米側の目論見通り、日本側が絶対に容認できる内容のものではなかったのである。ハルは日本側に本案を手交した後、スチムソン陸軍長官に
「自分はすっかり手を引いた。今や問題は貴官とノックス、即ち陸海軍の手に移った」
と述べたことが、全てを語っているようである。
日米交渉は、ハルノートを以てして終了したのであった。
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