第10章 ハル・ノートと日米開戦

10−1.流れた暫定協定案

ハルは甲乙案など問題にしていなかったが、それが最後通牒であると誤解したことで、事態は思わぬ方向へ進もうとしていた。
このまま開戦となれば未だ軍備も万全とは言えないし、何より米国が終始とり続けてきた交渉態度は少なからず同盟国にも動揺を与える結果となる恐れもある。何か日本と暫定的な取り決めを行い交渉を引き延ばすことを考え始めたのである。
当然ながらそれは日本に有利なものであってはならないことを念頭に置いている。ハルがこうした考えを抱き始めたのは甲案が提出された直後あたりからである。



最初に国務省極東部より独自の対日私案をハルに提出したが、内容は乙案の対案なのか、基礎案なのか分からぬ内容であったため見送られた。
続いて財務長官モーゲンソーが同じく私案を国務省を通り越して直接大統領へ提出した。このモーゲンソー案に基づいて、国務省は一般案と暫定協定案に分けて作成し、そのうちの暫定協定案が削除されたものが後日ハル・ノートとして日本に手交されるのである。

モーゲンソー案の出自は、ハリー・デクスター・ホワイト財務省特別補佐官であり、実はこの人物はソ連の諜報員であったという説があるが、それについては本稿では割愛する。暫定案について具体的に見てみれば、かなり突っ込んだ内容のものであった。もしこれが我が方に提示されていれば日米交渉は継続されていたやもしれない。

22日に作成した案では6項目にわたる比較的短いもので、中でも注目するのが南部仏印からの撤兵を求める代わりに北部仏印での駐兵を制限付きながら認めていることである。これは仏印進駐にあたり常に態度を硬化していた米国が始めて妥協したものである。さらに両国の資産凍結解除も約束している。二日後の24日案ではさらに通商問題に詳しく言及し、民需用石油の輸出許可などを盛り込んだものであった。少なくとも日本にとってこれは日米交渉打開の兆しを抱かせるに十分な内容であったが、ではなぜこの暫定案(*1)が日本側に提示されなかったのであろうか、少なくともハル長官はそのつもりで居たのにである。


それはこういうことである。24日にハル長官は英国・オランダ、支那・オーストラリアの各大使を呼び、暫定案についての意見を求めた際、支那が猛烈に抗議したことと、他国もまた代表者らが本国から何ら訓令を受けて来ているわけでもなく、また戦争になった時は米国が軍事行動を準備し、全地域の防衛に指導的役割を担うことを期待していることにハルは失望すると共に呆れたのである。

まず、支那公使は印度支那に日本軍が残留することに反対し、5千に引き下げるべきと主張したがハルが
「我ら五カ国にとって大いなる利益は向こう三カ月にわたり日本を平和路線に縛り付けることであり、かつ、五カ国に於いてはその間さらに諸準備を整える余分の時間を持ちうる等の利点がある」
と述べ、参列した各国も納得したかに見えた。
しかし支那は執拗に暫定案に反対した。一時的にせよ日米が暫定協定締結しようとしたことを知った蒋介石はなりふり構わぬ抗議を行ったのである。
「蒋介石は国務省以外の政府高官連に数多のヒステリックな電報を送りつけ、時には大統領を無視してまでも、事実を知らぬまま、微妙且つ重大な情況の中に押し入ってきた」
「蒋介石は義弟をして新聞記者その他に有害な報道をばらまかせた」

とハルは後に語っている。
さらにハルのもとへ蒋介石の工作によって動かされた英首相チャーチルから大統領宛の電報が届き、これは暫定協定案は支那を不利に追い込むと批判する文書であった。蒋介石は米国の支援なくしては抗日戦はとても完遂できないと実感していた為、このような行動に出たと言える。


かかる反対によりハルは暫定案の提示を取りやめ、モーゲンソー案にあった一般協定と、オーラル・ステートメントが26日に野村・来栖両大使に渡されたのである。ルーズベルトもハルも日本がこんな要求を呑むはずがないと最初からわかっていた。引き延ばしに賛成であったルーズベルトがなぜこれに賛成したかと云えば、同日にスチムソン陸軍長官より「日本軍の大船団が集結中」という報告を受けて激昂し、既に情勢は変わってしまったと賛成に回ったようである。しかし実はこのスチムソンの報告は明らかに過大に取り上げたもので陸軍情報部からは脅威に値しないとされていた情報をことさらオーバーに大統領に進言していたのである。

(*1)最終的な暫定案は25日に完成した。

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