1−2.九ヵ国条約と米国の門戸開放主義

九ヵ国条約は開戦までの米国の極東政策、特に支那問題を語るにおいて欠くことはできないものである。
ワシントン会議最終日に参加九ヵ国によって調印され、主に支那の主権や領土の尊重、また在支権益における門戸開放や機会均等などをうたっている。
今まで負け犬の遠吠えであった米国の門戸開放の訴えがここに国際条約として成文化されたことは非常に大きく、後の日本の大陸政策を非難する格好の材料を米国は手に入れたことになる。


さて、米国の門戸開放主義とは何であろうか。
1899年、米国国務長官ジョン・ヘイが発した「門戸開放宣言」から見ると、支那に租借地や権益を持つ列国が、その中の条約港や他国の既得権益に対して干渉しないこと、またその勢力範囲において関税や鉄道運賃の面で他国に不利な待遇を与えないこととした、通商上の機会均等をうたったものである。
これは支那(清国)における列強の進出がめざましく、これに大きく遅れをとった米国が苦し紛れに放った一手である。


問題は義和団事変後に発せられた第二次の門戸開放通牒で、これには先の機会均等の範囲を支那全土を対象とするとした上、支那の領土保全までも提唱したことである。
このように門戸開放の定義が拡張されたことで、その解釈にずれが生じた。
特に清国の領土保全が門戸開放と混同されるようになり、日米間でその解釈の違いから新たな紛議を形成していくこととなる。


双方の議論において日本が特殊権益の立場を主張することと、米国が門戸開放を主張することは国際的な見地からすれば当然日本が不利であった。片方は生存権を守ろうとする「持たざる者」の死活的主張であるのに対して、片方は余裕をもって生活している「持てる者」の赤十字的主張であるからだ。
後者が前者より美しく、正しく見えてしまうのである。



話を戻して九ヵ国条約は支那に安定政権が出来ることを前提にしたものであったが、後の支那を見ると共産主義のせいで内乱状態になり、極端な排外主義に陥っていった。
前提が崩れてしまった本条約は非現実的となったのだが、これを最後まで活用した米国を見るとやはり自国の日本の進出を抑えることのみを目的としていると考えることもできなくはないだろう。

1−3へ進む
大東亜戦争開戦の経緯へ戻る
図書室へ戻る