第1章 日本と米国との対立

開国以来、日本はひたすら富国強兵に努め、その間は列強との不平等条約問題等を抱えながらも、対立構造にまでは発展していなかった。むしろ日英同盟を結ぶなど、当時の列強のパートナーとしての役割さえ任せられるようになっていた。
そんな日本と米英が対立するきっかけとなったのは、日本の国力が次第に強化されたことにより、彼らに警戒心を持たせたことにある。
ことに第一次大戦後はその空気が前面に押し出されたのである。



 1−1.ワシントン会議と日英同盟の廃棄

ワシントン会議の目的は建艦競争による各国の軍事費増大を止めることを主眼として、制限を設けたのであるが、米英にとっては日本の進出を抑えるというもう一つの目的があった。
日本は日英同盟の強化、米国との親善円満な関係を保持することを閣議決定し、全権を会議に送ったのであるが、米英の思惑とはまったく逆である。


さて、ワシントン軍縮会議は、大正10年(1921)7月11日に米国が日本・英国・イタリア・フランスに対し、軍備制限及び太平洋・極東問題討議のため、ワシントン会議の開催を非公式に提案したことに始まる。
この動きは第一次大戦後の各国、特に列強と呼ばれた国々の中でも特に日・英・米三国の建艦競争による軍事費の増大は、それぞれの国の大きな経済的負担となっていた。
直接戦争の被害を受けたイギリスはもう限界に達していたし、日本はもともとの経済力の低さが軍事費の増加を許さない状態になっていた(*1)し、一番戦争で利益を得たと言えるアメリカでさえも財政的苦痛を感じるようになったのである。


こういう情勢のため識者からは軍縮の必要性が強く唱えられ、日本政府としてはこの会議を軍縮の実現と、かねてよりの国策である日英同盟の存続を主張する機会として利用することに決し、応諾したのであった。
全権に加藤友三郎海相と貴族院議長の徳川家達らが任命され、軍縮については加藤全権が、日英同盟存続については徳川全権と責任分担することになった。


政府は閣議を開き総括的な意見を訓令として全権に与えた。

 一、米国との親善円満な関係を保持すること
 二、英米との均衡を失しない限り、八八艦隊計画に固執しないこと
 三、米国に対し七割以上を絶対要件とすること
 四、空母について制限が加えられる時は英米と同数とすること

軍縮会議は大正10年11月12日に開催された。
冒頭に米国全権ヒューズが議長に推され、彼は早速軍縮問題の討議に入りたいとして、予め用意していた原案を提示し、彼はまず四原則を示した上で米国案を読み上げた。

(1)主力艦の建造計画は、既に実行中のものと未着手のものを合わせ、一切これを放棄すること。
(2)軍備縮小の静清を貫くため、さらに老齢艦の一部を廃棄すること。
(3)一般に関係各国の現勢力を基礎とすること
(4)主力艦のトン数をもって、海軍力測定の基準とし、これに比例して補助艦艇の勢力割り当てを行うこと。

さて、米国の算定した主力艦の現有勢力はおおむね日本が30万d、米英がそれぞれ50万d、仏伊が各々10数万dで、この割合を基礎に将来の海軍力を制限しようではないかと提案したものである。
これがいわゆる5・5・3の比率の根拠となったのである。


11月15日に第二回総会が開かれ、英国は全面支持を表明したが、日本側は納得できず、以後専門委員会に付議されて2週間審議を行うも妥結には至らなかった。
結局、12月2日の全権会議に付議されることとなり、グアムや小笠原諸島などの南洋諸島の防備制限を定めることを条件として、日本代表は対米6割を受認した。
以上の請訓を受けた政府は、太平洋の防備現状維持を条件に米国案を承認することに決し、12月11日の会議で「米5」・「英5」・「日3」・「仏伊1.75」が決定された。翌年2月6日に調印式が行われ、効力発生は各国の批准が完了した1922年8月17日であった。


米国はさらに日英同盟の廃棄をも要求してきた。
日英同盟の仮想敵国たる帝政ロシアが滅亡した現在、この同盟は米国を仮想敵国とするほかは存在意義がないと強い不信感を表してきたのである。
また日英同盟があるから支那における日本が自由に行動できるのではないかと考えたのも一因である。
これに対し英国世論は米国と隣接するカナダがその地理的要因から廃棄賛成であったが、英連邦の多くは継続を望み、日本もまたそうであった。
しかし日英同盟に代わるものとして、日英米仏の間に「太平洋に関する四ヵ国条約」が結ばれ、日英同盟は廃棄されるに至った。全て米国の圧力によるものである。
英国内では依然として日英同盟を望む者も多く、同盟は廃棄されたが、両国の関係が著しく悪化するきっかけとはならなかった。英外交官は「我々はウィスキーを捨てて水を受け取った」と落胆を示していた。


もともと日英同盟は米国と微妙な関係にあった。
その調印履歴を振り返れば、第一回の調印は日露戦争前の1902年1月末日で、日英どちらかが2国以上の敵と戦う場合は、他方は参戦して武力行使することになっていた。

第二回目の調印は日露戦争末期にイギリス側の強い要望で調印され、内容も強化され今まで2国相手の時のみだった参戦義務が1国相手でも義務を負うようになった。
第一回目の日英同盟が防守同盟、第二回目が攻守同盟と呼ばれたのはこういうことである。
攻守同盟は日露戦争以前より日本を仮想敵国と見ていた米国にとって面白いはずがなかった。

英国内でも長い米国との関係よりこの課題を解決せんと、第3回目の調印が行われた。即ち同盟の対象国から米国を外すことを英国は迫り、我が国も妥協案を出したりしたが最終的には我が方が折れて、米国を対象から外し、調印された。
このように既に米国にとって危険ではない日英同盟さえも米国は言いがかりをつけて破棄するよう強く要求してきたのである。


ちなみになぜ英国が日本に肩入れしてくれるのか、具体的な根拠を一つあげるとすれば義和団事件の際、各国が出兵する中、当然日本も出兵した。問題はここでの武勲もさることながら我が皇軍の軍紀の厳正に各国は賞賛を送ったことである。
というのは各国の軍は占領地での暴行・略奪・強姦など悪事を限りを尽くしたが、皇軍は厳正な軍紀の下、これら悪事に走る兵はほとんど居なかった上、北京公使館区域の籠城者を救助したことは世界に知られた。
この時のロンドンタイムスの社説では
「公使館区域の救出は日本の力によるものと全世界は感謝している。列国が外交団の虐殺とか国旗侮辱をまぬがれ得たのはひとえに日本のお陰である。日本は欧米列強の伴侶たるにふさわしい国である」
と記している。これが日英同盟のひとつのきっかけであったとも言われている。



ともあれ、日英同盟の廃棄は日本を孤立化させる結果となり、大東亜戦開戦まで極東情勢の場においてはずっと単独で対処せねばならなくなったのである。以後極東はこの「ワシントン体勢」下に置かれることになる。

(*1) 大正10年における海軍予算は国家歳出の32%を占めるまでに至った。


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