ニュルンベルク裁判と並ぶ第二次世界大戦の終結を物語る裁判である。どちらの裁判も軍国主義国家の責任者を文明の敵として告訴されたものである。
多分に政治的背景が強いこの裁判であるが最近その判決に不適切な部分が多いと議論されるようになってきた。
詳細に裁判の行方を追ってみる。
大東亜戦争までは、戦犯裁判と言うと一般的に非人道的な行動をした指揮官や実行者、例えば毒ガスなどを使用したりした者へ対する処罰を決める・・・分かりやすく言うとおっきな軍法会議なわけでした。
ところが第二次世界大戦での戦犯裁判では民主主義の発達からか、平和に対する罪・・・戦争を画策した人物なども裁判の対象となった。
しかし法理的にはこのような裁判は無理があり、イギリスの指導者などは国際法の現状からそんな無理な裁判をやるよりはナチの最高指導者を警告なしに射殺して、それからその事実を世界に公表すればいいと主張したが、アメリカの強い主張でこのような裁判を行う事になった。
アメリカとしては侵略戦争を違法化することの世界平和の上に持つ意義を裁判で主張したいと考えていたからである。そして自国の軍事行動の正当化を図る意味もある。
ようするに見せしめなのだ。
さて、困難である理由は戦争犯罪人とは何かというはっきりとした解釈が確定していなく、仮にその解釈が確定していてもその適用・・誰が戦犯で誰がそうでない・・という仕分けが難しい。
また刑法の基本原理たる罪刑法定主義にも適合しない。
それに今回のような大がかりな戦争犯罪人の逮捕は歴史上にも例がなく、ドイツと日本が初めてだった。つまり今回の裁判は今後の戦犯裁判の指標ともなる重要なものなのだ。
対日政策を一任されたマッカーサーも部下もこの難しさを感じていたらしい。
1945年8月9日午後から夜半過ぎまで皇居で行われた御前会議はポツダム宣言を受諾し降伏を決定した会議だった。
この会議の中で戦争犯罪人の問題がでた。
ポツダム宣言10条の「我々は日本民族を奴隷化しようとしたり滅ぼそうとする意図は持っていないけれども、我らの捕虜を虐待したものを含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重な処罰を加える」の項に対し陛下は「戦争犯罪人は朕の忠臣にして、之が引き渡しも忍びざる所」であるとしながらも受諾を決定した。
その際、日本側は「戦争責任者の自国に於いての処理」を受諾の条件とした。しかしこれは連合国によって黙殺された。またこの「自主裁判論」は日本の内部事情からも反対が多かった。降伏後に組閣された東久邇内閣は連合国による戦犯処理への防波堤としてこの日本側による「自主裁判論」を主張したが宮廷を中心として強い反対が起こりたち消えた。その理由として木戸内相は「自主裁判をやれば一種の国民裁判になる。共産主義者が出てくるだろうし、そんな互いに血で血を洗うような裁判を天皇の名でやるというのは賛成できない」と言ったからだ。
| 参考までに・・・ドイツやイタリアではニュルンベルク裁判と平行して指導者への国民裁判が行われ、民主化への道しるべとなった。 |
戦犯容疑者はABCの三等級に分別された。本コーナーではA,B級を取り上げていきたいと思う。
| A級戦犯=戦争を企画・準備・遂行した平和に対する罪 B 〃 =捕虜虐待など C 〃 =人道に反する殺人など |
容疑者の逮捕は日本降伏直後から開始された。
GHQは占領政策の中でも戦犯容疑者の逮捕は優先課題とした。日本の旧体制を打破し改めるには容赦なく厳格に行うことが重要と考えたからだ。GHQが急いだのはA級戦犯の逮捕であった。マッカーサー元帥は速やかにその逮捕者リストを作るように指示したが難航した。
第一回の逮捕者リストには39名記載されてあった。この中には日本に協力した外国人15人も含まれていた。
【主な戦犯容疑者の逮捕日】
| 日付 | 容疑者名 | 主な役職経歴 | 備考 |
| 九月十一日 | 東条英機 | 首相・陸相・参謀総長 | 自殺未遂、重傷を負い横浜米陸軍野戦病院へ入院。 |
| 〃 十三日 | 小泉親彦 | 厚生大臣 | 自殺 |
| 〃 十四日 | 橋田邦彦 | 文部大臣 | 自殺 |
| 十一月十四日 | 荒木貞夫 | 陸相 | - |
| 〃 月二十日 | 梨本宮 | - | 皇族 |
| 十二月六日 | 近衛文麿 | 首相 | 自殺 |
| 木戸幸一 | 内大臣 | - |
東条の逮捕命令が出された9月11日。
その日午後4時に東条英機大将自宅に米軍将校が現れた。東条と言えば軍国日本の代名詞とも言える存在である。
東条は既に覚悟を決めており、係官らを玄関に待たせ居室にて拳銃で胸を撃ち自決を図った。
が、幸か不幸か弾丸は心臓をそれて一命をとりとめ横浜の米陸軍野戦病院へかつぎ込まれて囚われの身となった。
「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪過の汚名を残すことなかれ」の戦陣訓を自ら公布しておきながら哀れな様である。
そして東条は次のような遺書を残していた。
「英米諸国人に告ぐ。諸君の勝利は力の勝利にして正理公道の勝利にあらず。」
「日本同胞国民諸君。大東亜戦争は彼より挑発せられたるものにて、我は国家生存、国民自衛のため、やむをえず起ちたるのみ。」
また、逮捕命令を受けた東条内閣の厚生大臣小泉親彦は13日夜、文部大臣橋田邦彦は14日、それぞれ自殺を遂げた。
相次ぐ自決に対し、12日に日本政府はGHQに対し、連合軍が逮捕に出向くとこういうことがまた起こるので今後は日本側が責任もって容疑者の引き渡しを行うと申し入れ、承諾された。
11月19日、荒木貞夫大将ら11人が逮捕され巣鴨刑務所に入れられ、11月20日には梨本宮を筆頭に59名が逮捕された。
これは軍政界だけでなく産業界や言論界などのトップも含む大規模な逮捕だった。さらに皇族の逮捕は初めてで天皇の戦犯問題と関係があると見られ話題になったが梨本宮の逮捕は神道の関係でまたその内容がいい加減であると判明しまもなく釈放された。
そして12月6日、連合国側が重要視していた近衛文麿、木戸幸一らを含む9名に逮捕命令がでた。近衛は
「国際法で戦争犯罪人という規定があるか。米国がそれを裁く権限があるか」
と主張。
「逮捕命令があっても行かないよ」
と言っていた。
そして出頭日前夜に友人知人と酒を酌み交わし翌朝に服毒自殺した。
華族の誇り高き血と天皇に累を及ぼすおそれからの自決であろう。
日本人戦犯容疑逮捕者の数は総司令部発表では昭和22年7月15日現在でB,C級を含め2214人が逮捕された。
裁判所の場所は市ヶ谷台。
ここには明治初年に陸軍士官学校があった所であり、移転後は陸軍省参謀本部があった場所でもある。戦後は昭和27年、アメリカ極東司令部、現在は陸上自衛隊東部方面総監部がある。
まさに日本の軍事史を物語る建物であろう。
法廷はこの建物の裏側に連なる大講堂で開かれた。
そして裁判官は連合国とインド・フィリピンを加えた11カ国から選出された。
裁判長にはオーストラリアのウェップ。
彼は戦争中の日本軍の残虐行為を摘発し有名になった人物だった。
検事団も同様で、主任検察官はアメリカのキーナン。
日本側弁護団には日本人弁護士の他に官選によるアメリカ人弁護士団がついて英米法に疎い日本人弁護士をたすけた。
1946年5月3日に極東国際軍事裁判所は開廷されウェップ裁判長が開廷を宣言し公正で迅速な裁判を約束した。
国際検事団はわざわざ天皇の誕生日の天長節を選んで28人の被告に対する起訴状を発表した。
これは東京裁判を軍国主義に対する見せしめのショーのようにするために仕組んだものであるのは明白だ。
また、この日、精神異常(発狂した)の大川周明被告が突如東条の頭をはたき失笑をかった。
この日以後裁判は3年間に及んだ。
なかでも東条はキーナン主席検事と論戦を展開した。
日本を戦争に追い込んだ連合国側の責任や勝者の一方的裁きであることを追求。自分の功罪は歴史のみに裁かれると主張した。
また天皇へ責任が及ばないように必死に天皇が無実であることを弁明した。
ひとえに生き残った東条の最期の仕事はこの裁判で陛下をお守りすることだけにあったと言えよう。
私を捨てて、自らの名誉も捨ててである。
これは東条の並々ならぬ皇室への忠誠心を表している。
このあたりは評価されてしかるべき点ではなかろうか。
天皇の戦争責任問題は極東国際軍事裁判上の最重要な課題の一つであった。
終戦直後の1945年9月に東久邇内閣が自己裁判の態度を決定した際、
「天皇には戦争責任が及ばないようにする」
という方針を決め、後を継いだ幣原内閣も東京裁判に対する方針で同様のことを確認し清瀬一郎らの日本人弁護団も基本方針の一つとして意思統一をした。
が、連合国側、、ソ連・中国・豪州は天皇の責任追及を求めた。フィリピンもそれに同調した。
天皇の戦犯容疑を最も強く主張したのは豪州でマッカーサーは豪外相エバットと会談し、天皇を裁くことは占領の費用が莫大になりまた期間も延びるかを強調しようやく説得できた。
ソ連・イギリスも説得に応じた。これでなんとか天皇を裁判に引き出さずにすんだのだ。アメリカは占領政策上、天皇を戦犯にするのは政策に大きな支障をもたらすと判断していた。
なにせ実質的に終戦をもたらせたのは原爆でもソ連参戦でもないく天皇の力なのである。
たとえ原爆が何個投下されようと天皇が徹底抗戦の姿勢を見せれば延々と戦争は続いたであろう。
(もっとも昭和天皇は平和愛好家であり人道主義者でもある立派なお方であり一日も早い講和を望んでおられたからそれはありえない話だが・・・。)
が、それほどまでに天皇というのは日本民族の心に深く根ざしているということだ。その天皇を逮捕したら、国内でくすぶってる抗戦派が勢いづけまた戦闘が始まってしまうだろう。そうなっては大変だ。
また、天皇問題をめぐって東条とキーナン主任検事とのこんな問答がある。
検事:「その戦争をおこなわねばならないというのは裕仁天皇の意志でしたか」
東条:「私の進言、それに統帥部その他の責任者の進言によって、しぶしぶ御同意になったというのが事実です。平和御愛好の精神は最後の一瞬に至るまで陛下は御希望をもっておられました。昭和16年12月8日の御詔勅の中に、明確にその御意志の文句が加えられております。」
以上はほんの一例で東条や皇室・天皇の代理人ともいえる木戸もおのれのことよりも天皇の弁護に終始徹した。
彼らにとってこの裁判には天皇の無罪を証明するために出席してるようなものだった。
そして1947年10月10日のニッポン=タイムス紙はキーナン主席検事が天皇に戦争責任はないとの内容の談話を報道した。
キーナン検事は
「天皇及び主要実業家を戦犯として裁判にかけるべきだという議論があったが、長期にわたる調査の結果それらの議論には正当な理由がないことがすでにはっきりした。」
と述べた。
これによって検察側は天皇を告訴しないことに決定した。
1948年(昭和23年)11月12日、東京市ヶ谷の極東国際軍事法廷では1週間にわたった判決文の朗読が終わり、戦争犯罪人として起訴された25被告にたいし刑が言い渡された。
気付いた方もいると思うが起訴された時は28人だった被告は3人が欠けているのだ。
| 氏名 | 人物解説 | 原因 |
| 大川周明 | 国家主義者。三月事件、十月事件、5・15事件などに関与。 ファシズム運動の推進者 |
開廷日に突如東条の頭をハタく珍行をおこした大川は精神異常による発狂と鑑定され免訴。 |
| 松岡洋右 | 外務大臣。対米英強硬派の一人。 | 裁判開始直後に宿痾の結核が悪化。死亡 |
| 永野修身 | 開戦時の軍令部総長。 (※軍令部総長とは海軍大臣と並ぶ海軍の要職。主に作戦面を総括。) |
獄中の寒さからか肺炎で急死。 |
判決は満州事変に始まり太平洋戦争にいたる日本の軍事行動を侵略戦争と断じ、被告の多くがドイツ・イタリアと結託し世界支配を企て東アジアや太平洋からインド洋にいたる地域の支配を目的として共同謀議の存在を認め被告の多くがこれに加担した・・・とした。
また、真珠湾を開戦前のだまし討ちとし、これを殺人罪として告訴した検察側の言い分は退けられたが、全体的には検察側の主張を支持するものであった。
しかし「東条独裁」を頂点とした戦時体制が構築されていたにもかかわらず、統帥と国務は分裂し、統帥部の中でも陸軍と海軍の対立は深刻で、最後まで統一が出来なかったのは日本の戦争体制の特徴であった。
体制全体をいえば満州事変以後、系統的に侵略を拡大し戦争を推進していったことは間違いないが、体制内部の指導の問題としては、個人であれ、集団であれ、一五年戦争の期間を通じ一貫して侵略戦争の計画・準備・遂行にあたった特定の主体的決断者を指摘するのは困難で、被告の多くがむしろ主観的には既成事実に追随したり、自己に与えられた権限を忠実に遂行するという形で侵略戦争に加担し、これをおし進めた。
その意味ではナチス指導者のように能動的な全体的指導者としての意識をを持つ者を被告の中から見いだすことは難しい事だった。
刑の宣告は12日午後行われた。
アルファベット順に名前を呼ばれて法廷の中央に進み刑の宣告を聞いた。絞首刑は東条以下7人で大部分は陸軍軍人でその中に文官の広田弘毅がいるのは意外だった。
終身刑が16人で、有期刑の者はわずか2人だった。
◆A級戦犯判決一覧
| 被告名 | 職歴 | 人物解説 | 判決 |
| 東条英機 | 首相・参謀総長・陸軍大臣 | 陸軍大将。 開戦時の総理大臣兼陸相。終戦後自決を図るも失敗、その後は裁判で戦う決意をし、キーナン検事らに立ち向かう。 |
Death by
hanging (絞首刑) |
| 広田弘毅 | 首相・外相・駐ソ大使 | 文官。 2・26事件の直後に総理になった。戦争には反対していてなぜ死刑になったのかまったく謎。 | |
| 松井石根 | 中国派遣軍司令官 | 陸軍大将。 特に南京事件の責任を一身に背負ったことで有名。 | |
| 板垣征四郎 | 陸相 | 陸軍大将。 満州事変の際、石原らと結託し事変を進めていった中心人物。 (満州事変の項参考) | |
| 武藤 章 | 陸軍省軍務局長 | 陸軍中将。 39年〜42年まで軍務局長を勤める。 開戦強硬派であり、終戦が近くなると徹底抗戦を唱えた。 かなり頭がキレる秀才である。 | |
| 木村兵太郎 | 陸軍次官 | 陸軍大将。 開戦時の陸軍次官。 | |
| 土肥原賢二 | 満州特務機関長 | 陸軍大将。 | |
| 木戸幸一 | 内大臣 | 維新で有名な木戸孝允の孫。 天皇の側近第一人者。 開戦反対派で陛下の信任も厚い人物。 |
Prisonment
for life (終身刑) |
| 平沼騏一郎 | 枢密院議長・首相 | 第一次近衛内閣の後に首相になった。軍財包合を進め国内体制の整理にあたるが、ノモンハン事変での敗北に続き、独ソ不可侵条約締結にショックを受け「欧州情勢は複雑怪奇」と残し総辞職。 | |
| 賀屋興宣 | 蔵相 | 東条内閣の大蔵大臣。 | |
| 大島 浩 | 駐独大使 | ドイツ(ヒトラー)かぶれの駐ドイツ大使。 そのドイツ贔屓は凄まじく「おまえは日本の大使なのか、ドイツの大使なのか」と言われたこともある程。 | |
| 白鳥敏夫 | 駐伊大使 | - | |
| 星野直樹 | 満州総務長官 | - | |
| 鈴木貞一 | 企画院総裁 | 変わり身の早さで有名(笑 →(参照)陸軍と派閥 | |
| 橋本欣五郎 | - | 陸軍大佐。 1930年に桜会を結成した陸軍将校。 3月事件・10月事件の首謀者とされる。 →(参照)陸軍初の軍閥 桜会 | |
| 梅津美治郎 | 北京駐屯軍司令官・参謀総長 | 陸軍大将。 1935年に中国国民政と梅津・何応欽協定を結ぶ。 また降伏文章調印の際に大本営代表として出席。 温厚な人柄で知られる。 | |
| 小磯国昭 | 首相 | 陸軍大将。 東条内閣がサイパン島陥落の責任をとり総辞職した次に組閣した。米内光政との連立内閣で戦局挽回に奔走したが大局を覆すこと叶わず米軍沖縄上陸を機に総辞職。 | |
| 嶋田繁田郎 | 海相 | 海軍大将。 年功序列で海相になっただけ。 艦隊指揮の出来はいいが政治力は皆無に等しかったという。 | |
| 畑 俊六 | - | 陸軍元帥。 | |
| 南 次郎 | 陸相 | 陸軍大将。 | |
| 佐藤賢了 | - | 陸軍中将。 | |
| 岡 敬純 | - | 海軍中将。 | |
| 東郷茂徳 | 駐ソ独大使・外相 | 現実的視野を持った一流外交官。 | 禁固20年 |
| 重光 葵 | 駐中英大使・外相 | 東条内閣での外務大臣。 降伏文書調印式には日本全権として出席。 今回一番刑が軽かった。 服役後も外交官として活躍。52年には日本改進党総裁、54年鳩山内閣外相に就任。 国連加盟などに努力した。 |
禁固7年 |
七人の被告に対する処刑は12月23日に執行された。13階段に登る時、彼らは何を考えたのであろう・・・。処刑後、遺体は焼却され遺骨は鉄棒で打ち砕かれて共同骨捨場に捨てられた。
判決は多数意見で決まり、量刑も11人の判事の投票による多数決で決定されたものだ。
判決が言い渡された後少数意見が配られた。その中にはいくつか反響を呼んだ意見もあった。
一つはインドのパル判事の全員無罪の主張である。長い間イギリスの支配に苦しんできたインドの立場から、裁く者の資格を問題にしたものだった。
また、オランダのローリング判事は日本の大東亞共栄圏思想の欺瞞性を批判しながらも裁判所が審理できる戦争は太平洋戦争だけであると主張し、特に【侵略の首謀者達の仲間ではなかった】広田や、【戦争に反対していた】木戸幸一らを無罪とすべきと主張した。
最も議論が激しかったのはやはり天皇問題である。
フランスのベルナール検事とウェッブ裁判長らが少数意見として天皇の責任が依然曖昧で東京裁判自体が不平等なものとなったと指摘した。
またウェッブ裁判長は
「天皇が進言に基づいて行動したとしても結局は彼がそうすることを適当と認めたからである。それは彼の責任を制限するものではなかった」
と、もっと明確な形で天皇の責任に言及した。また、天皇が戦争の発起人として、天皇が訴追を免れていることでこの裁判の他の被告らは全てその「共犯者」にすぎないのでその点を考慮して被告らの量刑を軽くすべきだと主張した。が、結局は少数意見であるし、被告を選ぶのは検察でありその検察が天皇を不起訴と決めたからには裁判ではとりあげることは出来ないのであった。
強者が弱者を一方的に裁いた不平等極まりないものだと俺は考えている。戦後、裁判の中心となったアメリカが世界をリードする立場になるために東条らは利用されたのだ。はっきり言って裁判とは名ばかりで被告の弁明を真面目に取り上げたことなど幾度あったのか定かではない。
3権分立のアメリカなのだが今回の裁判には多分に政治的要素・・・世界戦略が含められていた。
特にアメリカとしては今後の占領政策を円滑に進める為にもこの裁判は必要不可欠だったのだ。
なぜなら普通、占領軍に対し、住民は反感を抱くものである。その怒りの矛先を東条らの指導者に向けさせ、悪いのは自分らでなく指導者だと思わせるのだ。
日本人はこのマインドコントロールとでも言おうか、思想操縦に操られ現在に至っている。
現代の人はこの戦争は日本の軍国主義者が行った世界平和への冒涜と考えるのが普通になっている。
しかし真実は不明なのだ。
占領政策で戦犯容疑者の逮捕を急いだのは彼らに事の真相を明かされないようにする為だったのではないだろうか。
判決後すぐに処刑が執行されたことからも考えられる。
証拠隠滅を図ったとも考えられまいか。
そう、裁判では連合国の行った蛮行の裁判はなかった。
連合国も日本と同様・・と言ったら変かも知れないが問題視される行動を行ってるのだ。
中東ではイラクの主権を侵害し挙げ句の果てには軍隊を派遣し政府に圧力をかけ、不法に占領状態にしたのはどう説明してくれるのだろうか。
さらに一番我々が関心あるのは原爆についてであろう。
本当に使う必要があったのか。俺はアメリカが原爆の威力を実際に試したかったのと世界各国への見せしめだったと考える。
米軍が被害の調査に熱心だったが救助活動にはてんで無関心だったのがその根拠だ。
まぁ見方によってはいろんな物の捉え方があるのは道理だが、そこんとこ納得いく回答が欲しいものだ。
今からでも裁判をやってその正当性を立証してもらいたい。
そうしなければ今後も日本人はアメリカに対し絶対的な信頼をおくことができないであろう。
これが裁判か?法を無視しているのは連合国だ。
提言・・・
−欄外日報−敗戦によって日本では多くの自決者が出た。世界でも希なことである。陸海軍関係者で527名にのぼる。(内訳:将校34人、軍属31名、看護婦3名、一般兵士・・・。) また民間人からも多数発生した。官僚や外交官もいた。 中でも特に右翼団体などによる集団自決は目立った。 8月22日に尊攘義軍10人が愛宕山で、23日に明朗会13人が皇居わきの祝橋交差点で、24日には大東塾14人代々木ヶ原でそれぞれ割腹自決を遂げた。 皆、敗戦により国体の危機を感じたのであろうか、国体無き日本に生き甲斐を失ってしまったのか、様々な理由が考えられるが非常に残念なことである。 |