9-1.軍法会議の設置
叛乱軍の帰参をもって事態収拾を図ることができた。
しかし、これから首謀者、将校等の断罪を行わねばならない。
叛乱軍将校は、この裁判を第二ラウンドと考えていた。
統制派幕僚は、ここで黒幕を含めて、軍首脳から青年将校に至る皇道派の一掃を図ろうとした。
昭和11年3月1日の午後、今度の事件に関する軍法会議の緊急勅令を仰ぐ閣議が行われた。
そして4日午前10時より枢密院本会議にて陛下臨御の下に閣議の軍法会議に関する勅命案の諮問を行い、可決の上、議長より上奏し裁可された。
これを経て3月4日、東京陸軍軍法会議は緊急勅令によって設置された。
| 緊急勅令 |
| 朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項により東京陸軍軍法会議 に関する件を裁可し之を公布せしむ 御名御璽 昭和十一年三月四日 内閣総理大臣 各省大臣 |
陸軍首脳は、叛乱軍をどう処分するかで議論噴騰。
出た結論が、天皇によって戦地と同じ(戒厳令下のため)特設軍法会議を設けることとした。
この会議の特色が、世に言う
上告なし、弁護人なし、非公開、一審制
である。
現在の裁判とはまったく正反対の性質をもっているのがわかるだろう。
しかも軍法会議であるから、法曹界の裁判官や検事ではなく、軍人が裁判を行うことが出来るのだ。
また普通軍の中で法問題を取り扱うのが法務官だが、別に他の兵科の人間でも構わないというのも重要な点だ。
さて、裁判にあたって、4日、天皇は本庄侍従武官長にこう言った。
「自分としては、もっとも信頼せる股肱たる重臣及び大将を殺害し、自分を真綿にて首を絞むるがごとく苦悩せしむるものにして、甚だ遺憾に堪えず。而してその行為たるや憲法に違い、明治天皇の御勅諭にももとり、国体を汚しその明徴を傷つくるものにして深くこれを憂慮す。
この際十分に粛軍の実を挙げ再び失態なき様にせざるべからず」
裁判前から、天皇により、『天皇の宸襟を悩まし、軍人勅諭に背き、国体明徴を汚す者』と断罪されては、もはや結果は決まったようなものだ。
叛乱軍将兵の命運はこの裁判を前にして天皇のこの一言に決した。
さて、今回の事件については緊急勅令が出る前までは相沢事件裁判と同様に、第一師団の師団軍法会議で裁判しようと陸軍部内で、特に法務官の間で考えられていた。
この形態であると、ほぼ普通の裁判と変わらず、弁護人もつくし、上告もできる。
ただ、この方法だと時間もそれなりにかかってしまうため、今回の前代未聞の大事件においては治安・軍紀保持の為に迅速に処理する必要に迫られた。
これに加え、天皇の勅令によって特設軍法会議が設置されたのである。
法廷は、被告人らの護送の関係で刑務所内に設けるのがいいと、議論が出たが、予審だけでなく公判までも刑務所内で行ったとすれば、のちに暗黒裁判と非難を受けるのは必至として、代々木練兵場内に6棟建てのバラックを建築した。
バラックとは言っても各部屋ごと完全な防音が施された。
4月上旬に完成し、早速裁判が開始された。周囲を鉄条網が囲み、歩哨が随所に立っていた中で・・・。
(なお、翌12年1月18日の判決終了後、素早くこの建物は解体された。)
裁判にあたり、匂坂春平法務官を主席検事とする検察官6名、裁判官としては小川関次郎法務官以下15名が任命された。
この裁判官の中には普通の兵科の将校も任命されていた。
例えば、酒井直次大佐や若松只一中佐などが挙げられる。
また、検察官は人数が足りないということで地方の師団から4人の法務官が東京に召集された。
裁判についてもうすこし捕捉しておく。
左の図をご覧いただきたい。
裁判の事実上の指揮は陸相が受け持っていた。
当時の陸相は寺内寿一大将で、裁判後は軍内部の粛正をした人物だ。(その後の粛正については別に詳しく書きます。)
まず、これだけで、裁判が公平さを欠いた、陸軍首脳の少なからぬ関与が考えられよう。
そして、陸相の下に公判部と検察部に分けられる。
公判部は文字通り裁判の判決を行うもので裁判官はこちらに属す。
検察部も文字通り検察官が属している。
ここで、非常に重要な問題がある。
検察部は大臣の指揮の下で被告人の起訴/不起訴を決めた。
公判部は「司法の独立」を建前としたが、結局裁判官は陸相に任命されることとなる。
さらに、検察部は人事権や、捜査指揮権をも有していた。
これだけでもおわかりになると思うが、陸相いかんで、被告人を裁判にかけずにすむ、捜査の手をゆるめることができる、判決が気に入らなければ裁判官を換えてしまうことが出来るということが大問題なのである。
ここが暗黒裁判と呼ばれる最大の問題点なのであろうと私は解釈する。
なにより、こういう制度にしたのは、捜査が事件の黒幕・・・おそらく軍首脳に居たであろう大物を守ろうとしたに違いない。
もしかしたら寺内陸相も一枚噛んでいたのかもしれない。
(この疑惑は香椎浩平戒厳司令官の逮捕(取り調べ)の段階でいよいよ色濃くなる。)
つまり、裁判が陸軍首脳の思惑通りに進行でき終結を迎えられるというメリットがあった。
例えば、北一輝や西田税の死刑は判決前に既に陸軍中央で決定済みであった。これは
「かかる不敬の輩が将校を惑わし今日の事態を招いた」
とのことだった。
さて、起訴された将校以下123名を予審にかけ、とくに事件に直接参加した将校20名は一ヶ月半で判決が下るという驚異的な早さで処理された。これら被告は将校班、下士官班、兵の班、常人班の5組に分けられ、それぞれの担当裁判官も同じく5組に分けられた。