8-4.鎮圧、叛乱軍解散


鎮圧の準備はほぼ整えられ、攻撃開始は29日9時と戒厳司令部で決定され、もはや小細工はなくなった。
この決定に伴い、麹町、赤坂の住民に対し避難勧告が出され、住民が僅かな手荷物を持ち、退去を始めた。

ちなみにこの時を前後しての住民に対しての戒厳司令部の発表は以下のようなものがあった。
2/29
戒厳司令部告諭第二号
本職は更に戒厳令第14条全部を適用し断固麹町区付近において騒動を起こしたる叛徒の鎮圧を期す。
しかれどもその地域は狭小にして波及大ならざるべきを予想するをもって官民一般は前告諭に示す兵力出動の目的をよく理解し特に平静なるを要す。

                           戒厳司令官 香椎浩平
2/29
戒厳司令部発表
◇戒厳令第14条
戒厳地境内においては司令官左に列記の諸件を執行するの権を有す、但し其の執行より生ずる損害は要償することを得ず
第一 集会若しくは新聞雑誌広告等の時勢に妨害ありと認むる者を停止すること
第二 軍需に供す可き民有の諸物品を調査し、又は時機によりその輸出を禁止すること
第三 銃砲弾薬兵器火具その他危険に渉る諸物品を所有する者ある時はこれを検査し時機により押収すること
第四 郵信電報を開緘し出入の船舶及び諸物品を検査し並びに陸海通路を停止すること
第五 戦状により止むを得ざる場合においては人民の動産不動産を破壊毀焼すること
第六 合囲地境内においては昼夜の別なく人民の家屋建造物船舶中に立入検査すること
第七 合囲地境内に寄宿する者あるときは時機によりその地を退去せしむること
戒厳司令部発表

万一流弾あるやも知れず戦闘区域付近の市民は次のように御注意下さい

(一)掩護物を利用し難を避けること (二)低いところを利用して避けること (三)屋内では銃声のする反対側にいること (四)立退き区域 市電三宅坂から赤坂見附、溜池、虎ノ門、桜田門、警視庁前、三宅坂の結び線は戦闘区域になるから立退きのこと  (五)立退き随意区域 半蔵門前警視総監官舎から弁慶橋をつなぐ外廊をゆき黒田侯邸から大倉商業、霊南坂上、虎ノ門をめぐる地域 (六)その外廊は交通停止区域

28日の晩には戦車が降伏勧告のビラを貼り付けてバリケード前を通り過ぎていった。
叛乱軍も決戦の覚悟を決めて、閑院宮館、陸軍省、首相官邸、山王ホテルなどに布陣し、兵の士気高揚の為の軍歌や万歳の声が周囲に響いていた。
また、叛乱軍は戦線を縮小して山王ホテル・幸楽・三宅坂での決戦を考えた。
磯部に至っては
「全部隊を山王ホテルに移動しよう。あそこは背中に宮城を背負ってるから向こうは撃ってこられないはずだ、絶対勝てる」
といきまいていた。

鎮圧に踏み切った戒厳司令部・軍本部もこうした叛乱軍側の覚悟を感じて緊張が高まった。
そんな中、28日夜に新井中尉が配置部署を離れ部下の中隊を率いて靖国神社に参拝するという行動は幕僚を驚かせた。
事件前に叛軍の会合に出席していたこともある新井中尉に対し軍当局が極度の警戒をもって新井中尉の行動を受け取ったのは当然であろうか。

事件後、新井中尉は禁固6年の刑を言い渡されたのも、幕僚に与えた衝撃を物語っている。
(もちろん新井中尉はこの判決は不当だと抗議した。)


また、東久邇宮を擁して叛乱軍が攻撃を開始するとウワサが流れ、戒厳司令部は東久邇宮邸を戦車4台を含む部隊で包囲した。
名目は保護・警戒ということだったが、それは建前であるのはすぐわかる。

なにせ相沢事件の際、相沢が上京して永田軍務局長を斬殺しようとするとき、わざわざ大阪の第4師団長の東久邇宮と面会してから行ったというから、皇道派との結びつきを否定することはできなかったと考えられるからだ。


さて、討伐の事態推移を書く前に戒厳司令部の作戦方針について述べておく。
二九日の為の戦闘指導方針
 主として戦車を利用して敵の抵抗を打破す
 先ず首魁(将校)の殲滅に努む
 彼我下士官、兵の犠牲を最小限に止む
 戦闘指導を左の五期に分かつ
  イ 第一期(午前8時まで)一般に帰順勧誘(戦車) 
  ロ 第二期(午前8時より午前9時まで)首魁の殲滅(戦車、一部の火砲)
  ハ 第三期(午前9時より午前11時まで)下士官兵の復帰勧誘(戦車、飛行機)
  ニ 第四期(午前11時より午後2時まで)拠点奪取(戦車、工兵)
  ホ 第五期(午後2時より午後4時まで)残敵掃討(戦車、工兵)
  各種処置
 イ 投降人の処置
 ロ 「トラック」の破壊その他器具の破壊
 ハ 新議事堂に侵入せる場合の処置
   午前七時戒作命第九号 近衛師団長へ
    参謀本部、陸軍省の奪回に就て


29日早朝、突如包囲部隊側から突撃ラッパが鳴り響き、バリケード近辺の叛乱軍側は緊張状態になった。
そして戦車数両が轟音を響かせながらバリケードに接近し、横を通り過ぎるさまビラを配る。また戦車には降伏勧告のビラが貼りつけてあった。

戦車には
「謹んで勅令に従ひ」
「武器を捨て、我方に来れ」
などと書かれたビラがぺたぺたと貼りつけてあった。また配ったビラも同様のものであったが、なにせ横を走りながらであったため、充分に叛乱軍側の陣地には飛んでいかなかったようだ。

続いて、飛行機が叛乱軍側の占拠している陣地上空を飛び、ビラを配った。
このときまかれたビラで有名なのが、「下士官兵ニ告グ」で初まるビラである。
 


 























































































































さらに、8時55分から戒厳司令部内の放送室からラジオを通じて、中村アナウンサーによるあの有名な「兵に告ぐ」の説得が始まり、特設されたスピーカーから叛乱軍側の下士官・兵に語りかけた。
また、「勅命下ル軍旗に手向フナ」の文字がアドバルーンで掲げられ、兵の動揺は最大に達した。

先の戦闘方針に沿って、兵と下士官を分けることが討伐作戦の基本であった。
磯部は
「これは卑劣なる敵の分断工作だ」
「参謀本部の幕僚どもの陰謀だ」
と叫んだが、もはや叛乱軍将校の間には「部下の兵隊を犬死にさせたくない」、「兵に罪はない」という意識が膨らんでいった。この分断工作によって最も動揺したのは彼ら将校なのかもしれない。
しかも前後して岡田首相生存の報告も入り、内閣が倒れないことがわかる。

もはやこれまで。
まず、首相官邸に布陣していた中橋基明隊が解散。同官邸に布陣していた栗原も戦意喪失していた。同じく清原少尉、ドイツ大使館前の坂井隊も解散、中島隊も・・・。
・・・壊滅である。


坂井:「大元帥、天皇陛下に対し奉り、捧げ銃ッ!!」
−ラッパ手による「君が代」演奏−
曹長:「なおれッ」
坂井:「只今をもって坂井隊は原田曹長(※)指揮の下、勅命を奉じて原隊へ復帰する。諸子の勇気と赤誠に中隊長は心から礼を言う・・・・」
曹長:「中隊長殿に敬礼ッ。かしらぁーなかッ!!」

(※)もしかしたら違う名前の下士官かもしれない。

こうして各中隊は、下士官(曹長)の指揮の下、原隊へ帰っていった。

そんな中、山王ホテルに陣取った安藤隊だけは最後まで止まっていた。
同じ場所に居た丹生隊が引き揚げても、兵は軍歌を歌い、尊皇討奸の旗の下、抗戦の意志を堅持していた。
そう一人の脱走者もなかった。


最後まで徹底抗戦を主張していた安藤であったが(叛乱に加わるまでは非常に慎重であった。磯部や栗原らに誘われた時も部下の下士官・兵を巻き添えにすることを憂慮していたほどであったが、蹶起後は抗戦派になった。思い立ったら最後までやるという意志の強い男だったと言える)、ついに午後1時ころ、兵をホテルの庭に集合させ、決別の挨拶をし永田・堂込曹長指揮の下原隊へ兵を帰した。
その時、
「原隊に帰るまで昭和維新の歌を歌いながら行進していってくれ」
と部下に訓辞し、部下が去っていく中、一歩二歩と下がり、やにわに拳銃を取り出し、自決を図った。
(しかし、安藤大尉はかろうじて一命を取り留め、後の軍法会議で処刑される。)


午後2時、下士官と兵は全員原隊に戻り、将校は全員陸相官邸に集まった。
時を同じくして、討伐部隊は歩兵第一連隊旗を奉じて陸相官邸・その他の叛乱軍陣地に侵入し、各要所を奪回した。
岡部適三憲兵大尉指揮の憲兵が香田大尉以下全将校は武装解除された。
階級章を剥ぎ取られ、拳銃その他の装具も没収され軍刀のみ携帯を許される。

将校が武装解除されている間、別室にいた首謀格である野中大尉は拳銃で自決した。
銃声が邸内に響きわたり、同志将校は涙を飲んだ・・・。


叛乱軍将校は第二応接室に収容され、自決が強要された。
当然自決が行われるものとして敷布・ガーゼまで用意されていたという。
だが、叛乱軍将校は自決に応じなかった。
まだ彼らには軍法会議という第二ラウンドがあると考えていたのである。


村中・磯部らはすでに免官となっていて、軍服を着ているとはいえ民間人なので捕縛された。
また二七日に西田税宅から叛乱軍に加わったままの渋川善助はもっとひどく、上半身にぐるぐると縄をかけられた。

こうして午後6時ごろ、全員は護送車によって代々木にある陸軍刑務所に収容された。

ここに2・26事件は終結したのである。
結果、両軍ともに一発の発砲もなく、皇軍相撃を避けられたことは不幸中の幸いにして、香椎がもっとも自負するところであろう。


さて、その後である。

中村アナウンサーのラジオ説得の際に、
「今からでも決して遅くはないから、ただちに抵抗を止めて軍旗のもとに復帰するようにせよ。そうしたら今までの罪も許されるのである」
という一節が問題となった。
放送は戒厳司令部にいた大久保少佐、根本大佐、山下少将の独断で文案を決めたものであり、事態解決に貢献したのは否定できないが、「今までの罪も許される」の部分は大問題となった。

これは軍の統帥の問題で、「一体誰が許したか」ということである。
参謀本部内には作戦行動に必然的に伴う謀略として許せるという意見もあったが、結局、部内では
『この言葉は大久保少佐の書いた原稿にはなかったが、中村アナウンサーが感極まって付言したものである』
として処理された。

3月1日、殺害された高橋是清、斉藤実、渡辺錠太郎は、天皇陛下から「優渥なる御沙汰」をもって「位一級」追陞、さらに高橋是清、斉藤実には大勲位菊花大綬章、渡辺錠太郎には旭日大綬章が追陞された。

同日、陸普第九八〇号が出された。
陸普第九八〇号
   事件に関する件

 昭和十一年三月一日
                            陸軍次官 古荘幹郎

 戒厳参謀長 安井藤治殿


今次の不法出動部隊(者)を叛乱軍と称することとす

なお、先の述べたように、軍法会議を経て叛乱軍将校の死刑が執行された日の直後7月18日まで帝都は戒厳令下にあった。
次では軍法会議について記載する。

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