8-3.討伐命令下る


情報が混乱する中、形式的にせよ奉勅命令が下達され、1時間が経った。
そう、これで叛乱軍は勅命に背いたことになり、天皇の勅命に背く者は当然攻撃されるということになった。

事態の変化が見られず、遂に戒厳司令部は2月28日午後11時に討伐命令を下した。
戒厳司令部作戦命令第十四号
叛乱部隊は遂に大命に服せず、依って断固武力を以て当面の治安を恢復せんとす。
第一師団は明20日午前5時までに概ね現在の○○堅持に首尾し、随時攻撃を開始しうるの準備を整え、戦闘地域内の敵を掃討すべし。

                                     戒厳司令官  香椎浩平
※上の○○の部分は不明。なお上のものは命令の一部を抜粋。


発令にあたっては、28日午前7時30ごろ、満井中佐の提言で、戒厳司令部に荒木、林の軍事参議官と、今井軍務局長、飯田参謀本部総務部長、石原(戒厳)作戦課長、川島(元)陸相、杉山参謀次長が集まった。
そしていざ会議を始めるというとこで、石原が強硬に軍事参議官の干渉を拒絶し、退席させようとした。
荒木は
「一同相談の結果、叛軍を武力討伐するにおいては、きわめて重大な影響あるにつき、ここに次の意見を出す」
と前置きし、皇軍相撃を避けよと力説したが、石原は頑と動じず、遂に、二人を追い出すこととなった。
何度も書くように、収拾の手は省部、ひいては統制派幕僚に移っていた。
もはや叛乱軍側にとっては軍事参議官はアテにはならぬ、とすると頼れるのは叛乱軍に同情的な香椎戒厳司令官となろう。

その香椎は会議で改まった態度でこう言った。

「この機会に及びて平和解決の唯一の手段は、昭和維新断行のため御聖断を仰ぐにあり。
自分は今より参内上奏せんと考う。上奏の要点は、昭和維新を断行する御内意を拝承するにあり。目下の情況においては、叛乱軍将校は、たとえ逆賊の名を与えらるるも奉勅命令に従わずという決心を有す。
奉勅命令未だ出しあらざるも、これを出すときは皇軍相撃は必然的に明らかなり。兵にまったく罪はなし。幹部の責任のみ。
しかして罪は独り将校の負うべきものにして、罪は軍法会議において問えば可なり・・・・・・本来自分は彼らの行動を必ずしも否認せざるものなり。特に皇軍相撃に至らば、彼らを撤退せしむべき勅命の実行は不可能とならん」


鎮圧にあたる者がこういう考えである、これはいけない。
なにより陛下に上奏するとあるが、事態がどれだけ陛下の宸襟を悩ましているのか知っているハズなのに・・・。
断固討伐は陛下の意志でもあるのに、どの顔下げて上奏するのか想像もつかない・・・。

また、兵に罪はない・・・というのは叛乱軍将校も考えており、この頃になると自らの責任に重くのしかかってきており、中には兵を帰参させようと考え始めている者もいた。
まぁそれはさておき、香椎のこんな考えに省部が同調できるハズもなく、杉山参謀次長は断固として反対した。

「全然不同意なり。もはやこれ以上軍紀維持上よりするも許し難し。また陛下に対し奉りこの機に及んで昭和維新の断行の勅語を賜うべくお願いするは恐懼に絶えず。統帥部としては断じて不同意なり。奉勅命令に示されたる通り討伐せよ」

これを受け香椎は数分にわたって沈黙し、ふと顔を上げこう言った。

「決心変更、討伐を断行せん」

ここに叛乱軍の命運は決し、討伐の方法を考えるようになる。
既に討伐に向けて、佐倉、甲府連隊は上京しており、さらに仙台駐屯の第2師団、宇都宮駐屯の第14師団からの兵力抽出も決定されていた。

また、奉勅命令には歩兵第一師団に討伐するよう命じられていたが、参謀本部では歩一、歩三をアテにせず地方連隊による討伐を計画していた。叛乱軍は歩一と歩三が中心だから当然だろうか。

ちなみに、歩兵第一連隊長の小藤大佐は自分の職責、そしてなにより軍首脳の意向、省部の意向を誰よりもよく知っていたので事件の帰趨を察知して、事件が片づいたら辞めると覚悟していた。
さらに彼には討伐命令が下されれば、「討つも歩一、討たるるも歩一」という連隊長として悲痛な運命が待っていた。
本当に辛い立場である。


さて、会議が討伐でまとまるのをみて、石原大佐はただちに命令受領者の集合を命じ、即時攻撃の開始を伝えようとした。
つまりこの命令受領が終わる瞬間から討伐が始まるということである。

統制派石原としてはサッサと片づけたいところだが、そううまくはいかない。
戒厳司令部の安井参謀長がまず
「奉勅命令の徹底が充分でないおそれがある」
として、しばらく発令を見合わせさせる。
そうしてると今度は堀第一師団長が
「大臣告示の趣旨実現に努めたく、また流血を避けるため説得に努めるから、奉勅命令の下達時機は第一師団長に一任されたい」
と申し出があり、香椎としても説得に賛成なのは先に書いた通りであるから、これを認め、堀師団長は陸相官邸に出掛けて叛乱軍将校の説得を始めた。

この頃になると叛乱軍側でも帰順か抵抗かで意見がわかれるようになっていた。
というのも周囲には歩兵に加えて戦車までもが威圧するように鎮座しているからである。

下士官兵の動揺も広まり、士気を保つのも一苦労であったようだ。
堀師団長の説得には山下少将、鈴木貞一大佐、山口大尉、栗原中尉、そして村中が同席し、いちおう撤退するということで話はまとまった。しかし、先に戒厳司令部に行っていた磯部が戻ってくるなり、
「おーい、いったいどうするというのだ。いま引いたらたいへんになるぞ。絶対引かないぞ」
と叫ぶ。
とりあえず、堀や山下が帰った後で相談をする。
ここでは徹底抗戦派の安藤大尉、磯部らと、香田、村中、栗原の自決・撤退派がお互い論戦となった。

栗原:「統帥体系を通じてもう一度お上にお伺い申し上げようではないか。奉勅命令が出るとかでないとかいうがいっこうにワケがわからん。お伺い申し上げた上で我々の進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときは勅使の御差遣くらい仰ぐようにでもなればしあわせではないか」

(※前に述べたように叛乱軍側に正式に奉勅命令は伝達されていない。下令されたというウワサはあったが・・。)

磯部も統帥体系を通じた上奏、つまり『小藤→堀→香椎→陛下』という順序でお上に自分らの真精神を伺うというのはこの際極めて的を得たものであると思い、賛成した。
ここで「自決→勅使差遣」という言葉が出てくる。これが彼ら叛乱軍の最後の希望といってもいい。

しかし、陛下の怒り、叛乱軍と大御心がまったく異なっていることを彼らは知らなかった。
山下少将は川島陸相と堀第一師団長を説き伏せ、宮中に参内して本庄侍従武官長を訪ねた。
そこで青年将校が陛下に罪を謝するために切腹する覚悟であり、下士官以下は直ちに原隊に帰し、その罪のお許しを願っていること。自刃にあたり特別のお慈悲をもって侍従武官の御差遣を賜い、彼らに死出の光栄を与えてくれるよう伝奏を申し入れた。
本庄は事件発生以来の軍の処置に対しお上はご不満の様子だから出来ないと断ったが、山下の熱意におされて伝奏をひきうけた。

「本庄日記」によると

・・陛下に伝奏せし処、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく、かくのごときものに勅使など以ての外なりと仰せられ、又師団長が積極的に能はずとするは(積極的に行動にでないのは)自らの責任を解せざるものなりと、未だもって拝せざる御気色にて厳責あらせられ、直ちに鎮定すべく厳達せよと厳命を蒙る。

とある。
これで叛乱軍将兵の希望は潰えた。
またこれを受けて戒厳司令部では速やかに討伐準備が整えられていった。



以下余談だが、この時の山下の行動は天皇の心証を害してしまった。
陛下は先の返答につづけて、
「そのようなことで軍の威信が保てるか。山下は軽率である」
と、普段臣下を名指しで批判したことのない天皇が言った。それを耳にした山下は愕然としたという。宮中を下がる悄然たる姿は同行した川島陸相の脳裏にも深く残っていたほどだ。
後日「山下は陛下に嫌われている」と軍中央で噂されるようになったのもこの一件によるものである。

とは言え、本来山下は天皇に忠実な男であった。
たとえば、大東亜戦争中、中国大陸や満州や、マレーにあるとき、山下は自分の机を変わった向きに配置した。訪ねられれば「この方が座り心地がいいから」と答えたそうだが、ある時一度だけ本音を打ち明けたことがある。
「実は東京の方向を磁石で正確に標定して、机を宮城に向けてある。自分はお上の御前にあるつもりで部下の指揮にあたっている」
と・・。
それほどまでに山下は天皇に忠誠な男であったのだ。
陸大を5番で卒業し、外国駐在を経て軍政畑を邁進し将来を注目された山下だったが、今回の二・二六事件で青年将校を擁護した皇道派に属する人物と見られて、その後恵まれなかったのである。

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