8-2.奉勅命令


奉勅命令、それは天皇が直接下す命令のことである。
軍人勅諭には

「下級のものは上官の命を承ること實は直に朕が命を承る義なりと心得よ」

という一節があり、上官の命令=天皇の命令というわけだが、これは厳密に言うと奉勅命令ではない。
言葉は悪いが、上官が天皇の名を語って命令を下すのがこれであり、奉勅命令は天皇自らが直接統帥大権をもって命令を下すことを意味する。
その威厳の高さは他のものとは比較にならないほど、絶対のものである。

そして、その絶対神聖なる奉勅命令が28日午前5時8分に下達された。
臨時変更参謀本部命令第三号
戒厳司令官は三宅坂付近を占拠しある将校以下を以て速に現姿勢を徹し各所属部隊の隷下に復帰せしむべし

 奉勅
                                  参謀総長 載仁親王

この命令により、叛乱軍がすぐ原隊にもどらねば、また事態をそのままにしておくだけで勅命に抗した逆賊になる。
言うなれば最後通告である。
(命令書を見ると参謀総長が命令してるように受け止められるが、参謀総長は天皇の命令の伝達者だから記名されている。
これがいわゆる奉勅伝宣である。)

もちろん叛乱軍将校とても陛下に抗するなど考えようはずもなく、この命令で事態は収拾するはずであった。
そう、ちゃんとこの命令が叛乱軍側に伝達されていれば・・・。
またもこの事件の謎の部分が露呈してきた。
奉勅命令が叛乱軍に伝達された、されなかったという問題である。

獄中で叛乱軍将校は
「決して天皇に抗した覚えはない」
「奉勅命令は下達されませんでした」

と厳重抗議しており、さらに彼らの罪名が『勅命違反』が主要罪科であることを考えると、これはとても重要な問題である。

私としても叛乱軍将校が天皇に抗してまで蹶起する理由はないと思う、やはりこれは陰謀くさいところがある。
しかしもちろんながらこの命令は出されているのである。
さらにこの命令に基づいて、第一師団長の堀中将は具体的な撤退処置の命令をも下している。
さて、大臣告示の時と同様、どこで手違いがおこったのか、起こされたのか?

怪しい部分はいくつかあるが、まず鎮圧の総責任者である香椎中将の叛乱軍側への同情的な姿勢がある。
これは命令伝達・実行において何かしら不透明な部分を暗示させる。
また、この奉勅命令が正式伝達前に叛乱軍側に漏れていたという説がある。
さきの告示でさんざんな目に遭わされた叛乱軍側としてはこれが謀略であると感じるのも無理はなく、この命令は欺瞞だと信じたのかもしれない。
これを証明するように、新井中尉(叛乱軍にあらず)は後でこう述べている。
「私たち鎮圧軍に下達された奉勅命令は、藁半紙切れに奉勅命令と題し、『占領部隊は速やかに其守地を撤去すべし』と書かれ、日時も昭和11年2月とだけで、発令者の名前も記入されておらず、この形式はまさに告示の時と同様であった」
と残している。
どうなっているのか、これでは告示の時と同様、怪文書扱いされるのは目に見えている。
さらに新井中尉は
「陸軍大臣告示のからくりを知る叛乱軍首脳者(黒幕)が、この奉勅命令を捏造と拒否したのも、ある点事実をうかがっている」
と言っている。
奉勅命令は捏造だという説は当時有力だったらしく、それは軍首脳の行動と伝達の形式の両面から感じ取られた。

さらに付け加えて、先に磯部が戒厳司令部に陸相との面会を求めた際、石原と会って話をしたが、(8-1参照)そのとき、石原大佐がこう言った。
「君らは奉勅命令が下ったらどうするか?」
よく考えてみると、奉勅命令が下ったのは27日の午前5時8分。そしてこの時の時間は午前9時。
当然、石原大佐は叛乱軍に奉勅命令が下っているのを知っているハズなのに、どうしてこんなことを言うのか
怪しい。

ともかくも、事態の変化は起きず、ついにと言うかようやく叛乱軍への鎮圧命令が下されることとなった。

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