8.事態経過U

8-1.戒厳令発令

27日の午前2時40分の深夜、宮中の枢密院会議で戒厳令の施行が決定され、陛下に奏上し裁可をいただいた。

侍従:「くれぐれも叛乱軍に悪用されないように慎重に行って欲しいとの陛下のお言葉です」

そして27日、午前4時40分の「戒厳司令部作戦命令第1号」が発布され、警備司令部はそのまま戒厳司令部となった。
戒厳司令官は香椎中将、安井参謀長もそのまま戒厳参謀長となったのである。
同じように参謀本部の石原莞爾作戦課長なども戒厳参謀となり、まさに統制派による事態収拾第一歩が刻まれたのである。

一方、枢密院会議とほぼ同時刻に、ほぼ潰れかけた内閣が正式に内閣総辞職に決定。
後藤内相兼臨時首相代理が閣僚の辞表をとりまとめて天皇に奉呈し、聖旨により後継内閣組閣まで政務を続けることにした。

そのとき天皇は、一番重い責任がある川島陸相の辞表文が他の閣僚とほぼ同内容であることを指摘し、虎ノ門事件の責任者後藤新平の例をとって激しく非難した。
この一件は、天皇に陸軍を不信させ、陸軍が事態を収拾できないなら、自ら近衛師団を率いて鎮圧するという決意を固めさせたと思われる。
もっともこれは重臣の大反対で実現されなかったのだが・・・。

天皇自ら・・が実現されなかったのには諸説があり、今さっき述べたものの他に、天皇はイギリス皇室の「君臨すれども統治せず」の考えにとても感銘を受けて、なおかつ日本の発展において天皇主権が弊害をもたらしていることも自覚しており、とうとう実現できなかったという話もある。
弊害とは一番目に当たるのは軍部の政治干渉であることは言うまでもない。
統制派幕僚に多く見られるように、陸軍省に詰めている軍人はほとんど官僚化しており、完了はとかく自分の省の権限拡大を欲するもので(現在にもよく見られる。縄張り意識がその象徴)、彼らはその拡大をエスカレートさせ政治干渉へと突き進んだと言える。

ついでにここで、遠藤喜一海軍侍従武官(後の二代目総力戦研究所長)の回想を掲載する。
彼は昭和10年の春から三年間侍従武官として側近に奉仕していた。

事件が起こりました当時、先輩の武官は御差遣のため不在中であり、海軍武官として私一人が宮中に留まっておりました。
非常に重大な事件でありますので、私どもはまことに「恐懼措く所を知らず」という状態で、折に触れて御用を奉仕するため、御側に出たのであります。
今上陛下は、平素はまことに穏やかな御方で在らせられる。
しかし、その時は私どもはある戦慄きを感ずるような、雄々しい凄味を帯びた御姿でありました。
私どもは、陛下は神ながらの天職を犯す者に対する熱烈真剣な御気持をお有ちになっていると拝した次第であります。


話が逸れてしまったので元に戻そう。
事態はついに帝都に戒厳令下にはいる段階にきた。
ちなみに戒厳令とは
「戦時または事変にさいして、兵力を用いて警戒する必要がある」場合に天皇が公布する重要な行政措置である。
緊急勅令
朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮問を経て帝国憲法第八条第一項に依り一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し之を公布せしむ

御名御璽
 昭和十一年二月二十六日
この勅令によって戒厳令は施行され、26日から7月18日(叛乱軍将校の処刑後)まで帝都は戒厳令下となった。
戒厳令施行については川島(元)陸相が必要なしと主張したのに対し、杉山参謀次長が強く施行を主張した。
このことから統制派が事態収拾の主導権を握ったと言える。
統制派はこの強健発令下で叛乱軍を完全鎮圧し、ドサクサに紛れて・・余勢を駆って軍部の政治力を高めてしまおうという考えがあった。


-宮中での川島陸相と杉山参謀次長の対話-
杉山:「それは次官の申すとおり、この場合は戦時警備令だけでは不充分です。どうしても戒厳令までいかねばなりません」
川島:「貴官は戦時警備上奏の時、これで十分目的を果たせると言っていたではないか」
杉山:「情勢の変化もあります。同時に戒厳を令すれば、警察、通信、集会その他行政権を掌握するという便利があります」
川島:「・・・・そうかな」

この対話からもわかるように、軍部が行政権を掌握すれば合法的に政治干渉ができる・・・ということになる。
ここに統制派の本音が隠されているわけである。


さて、叛乱軍側も黙って事態を推移していたわけではない。
この事件の黒幕(未だに不明瞭)はせっせと「維新大詔」の渙発を狙っていたのである。
これは事件前に
「戒厳令を敷き、維新大詔の渙発をもって維新を断行する」
と既に謎の黒幕らによって計画されていたらしい。
現在この「大詔」は残っていないが、事実、叛乱軍の「蹶起趣意書」に応える形で昭和維新の大詔渙発をあおごうとする動きがあって、草案も作られた。

26日正午ごろ、軍事課長村上大佐が部下2名に命じて草案を起草させたのである。
二人は苦心して3時ごろ半分ほど書き上げた。そこへ村上大佐が現れ、「その半分でもいい」と言って持ち出し、首相官邸に車をとばし、さらに叛乱軍将校にもこの草案を見せ、大詔渙発も近いと言った。

叛乱軍にしても、戒厳令施行とこの大詔の話は、維新断行の段取り通りなので事態の前進とうけとめた。
しかし、この大詔渙発の話は草案と共に忽然と消えた。
黒幕が事態の推移を見て、叛乱軍を見捨てたのか?
まったく謎だらけの事件である。

ともかくも叛乱軍側はこの時点でも真崎内閣のもと維新断行という路線を堅持していたのだが、中間派の鈴木貞一大佐や満井中佐などから
「戒厳令下の軍隊に入ったということだけは明らか」
とだけ言われ、今は戦時と同じで命令、刑罰の重さを暗に諭され、不安を覚えた。
統制派の重要人物である武藤章中佐中心の軍務課の態度が強硬であったのも一因である。


そして、叛乱軍と軍首脳の最後の会見が27日、午後2時に行われた。
これが事実上叛乱軍の最後を決めたといって過言ではない。
真崎大将をもって事態を収拾しようとした叛乱軍は
「真崎大将に陸相官邸に来てもらいたい」
と申し出て、真崎が赴こうとすると、
「真崎大将単独で行くのは後日紛議の種になる」
と阿部、西の両大将が呼ばれもせんのに同行した。
こうして叛乱軍将校ほぼ全員と山下少将、小藤大佐、鈴木大佐、山口大尉を加えて会見は始まった。

野中大尉:「事態の収拾を真崎大将にお願いします。このことは全軍事参議官と全青年将校との一致意見としてご上奏願いたい」

これにたいし、真崎大将らは
「時局収拾の道は維新部隊が速やかにご統率のもとに復帰するにあるのみ。戒厳命令は奉勅命令なり。もしこれに反するときは、錦旗に反抗することになるぞ・・・。早く撤収あるのみだ」
と答え、
さらに真崎大将は
「我々軍事参議官は、お上のご諮問ありてはじめて働くものにして他に職種なし。ただ軍の長老として座視するに忍びず道徳的に働くのみである。事態の収拾には努力する」
と、前日陛下の命もないのに、全軍事参議官に川島陸相をも巻き込んで大臣告示までひっぱっていった自分の行動を棚に上げといて、いけしゃあしゃあとぬかした。

真崎:「このような不祥事によって私が組閣などできようものか」
磯部:「ちょっと待って下さい、不祥事とは何ですか?」

こんなやりとりで結局、この会見は実を結ばず終わってしまった。
青年将校たちは、国家改新の断行において軍首脳、幕僚とはしょせん共に進めないものだと大正末以来考えてきていたが、その宿命をこの土壇場に来てまざまざと見せられたのには大きく落胆した。
磯部の獄中文書によれば

「この会見がとりとめのないものに終わったのが維新派敗退の大きな原因だった。吾人はなんとしても正義派参議官に食いつき、真崎、川島、荒木などにダニのごとく喰いついて離れなければよかったのだ」

と残している。
この会見の後、磯部は28日午前8時43分に神谷憲兵少佐と同行して戒厳司令部に行き川島陸相との面会を願ったが、拒絶された。9時過ぎに会議の終わった石原作戦課長と面会し、
「奉勅命令は絶対なり、叛軍将校はかくなるうえは自決あるのみ」
と言われ、事態は叛乱軍にとって最悪の状態になっていることに愕然とする。

真崎大将は討伐を辞さないという省部の態度になおも反対し、なんとか説得しようとしていたが、石原や武藤らに、
「このまま事態が推移するなら、陸軍は何ら自力で解決できず、神ご一人の御決断に全てを託す他ない結果となる」
「天皇陛下自ら近衛師団を率いて鎮圧に赴かれたら軍の面目はどうなる」
と反論され、以後真崎ら軍事参議官は省部に押し切られることになる。

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