7−3.叛乱軍と軍事参議官の対談
軍事参議官は告示作成後も宮中に残っていた。
しかし湯浅倉平内大臣、木戸幸一内大臣秘書官長などの信頼を失っていた。
なにせ天皇の意志は事件発生を知った時から既に「断固鎮圧」で決定していた。
参内した人は皆、天皇の激しい怒りにうたれていた。
その天皇の宮中で、天皇の大御心に反する「告示」を作った軍事参議官、とくに荒木・真崎大将に対する不信は当たり前である。
真崎大将に至っては参謀次長時代に既に天皇・閑院宮の信任を失っていたくらいだ。
しかも皇軍相撃ちの悲劇を防ぐという目的で作成した「大臣告示」はまったく情勢に変化をもたらさなかったばかりか、叛乱軍に自信をつけ、周囲に混乱をもたらす結果となってしまった。
さて、「大臣告示」を作成した軍事参議官一同は、宮中を出て臨時陸軍省・参謀本部が置かれている九段の東京憲兵隊司令部に顔を出した。
そこには大臣告示に憤慨と疑念を抱く幕僚の刺すような冷たい視線が待っていた。
既に彼等の信頼はここにも無かったと言える。
一方、叛乱軍側から真崎大将もしくは去年まで第一師団長であった柳川平助中将(現台湾軍司令官)を後継首相に推して維新を断行するという希望が占領地内から伝えられた。
また皇族内閣(東久邇宮)組閣とか、維新の大詔が出るというような話が流れ、情報は相当混乱していた。
26日の中に軍首脳がとった具体的な処置といえば、「警備司令部発表第一号」と例の「大臣告示」のみである。
「告示」においては天皇の意志に反してまで作成したのにまったく効果無し・・。
いよいよ責任を感じて午後9時に軍事参議官は直接叛乱軍に会って話し合うことにした。
そして午後9時、一同は叛乱軍が占拠中の陸軍大臣官邸に到着した。
考えてみれば本来呼びつけるべき者のところへ元陸相2人、教育総監、参謀次長、軍司令官らが赴いたのだから面目丸つぶれと言ったところか。
それほどまでに辞退は逼迫してたとも言えよう。
会見の顔ぶれは、軍事参議官一同に対し叛乱軍側は香田・対馬・栗原中尉、村中、磯部の5名、さらに山下少将、小藤大佐、鈴木貞一大佐、満井中佐(陸大教官、相沢中佐特別弁護人)、山口大尉が同席した。
まず香田があらためて蹶起の趣旨と「陸軍大臣要望事項」を説明し会見は始まった。
参議官側からは荒木が真っ先に質問する。
荒木「大権を私議するようなことを君がらいうのなら我輩は断然意見を異にする、お上がどれだけ御軫念になっているか考えてみよ」
これには蹶起将校も仰天である、手のひらを返すような反応だ。
かつて皇道派の主であり、青年将校を子飼いにしてきた荒木もいよいよ彼等をかばえなくなってきたことを示す発言か。
さて、大権とは明治憲法に定められた天皇だけが持つ最高の権能である。(統帥大権、栄誉大権など)そして私議とは臣下が勝手にその権力を行使することである。
そう、これを読んでる皆さんにはおわかりでしょうが、ついさっき荒木ら軍事参議官自ら『大権私議』を行ってきたばかりである。
なんともいいかげん、無責任な発言であるが、これは叛乱軍側の知るところではない。
荒木に対し磯部は
磯部「何が大権私議だ。この国家の重大の時局に、国家のためにこの人の出馬を希望するという赤誠国民の希望がなぜ大権私議か。君国のために真人物を推すことは赤子の道ではないか。とくに皇族内閣説が幕僚間に蔓延している時、もし一歩過らば、国体を傷つける大問題が生じる瀬戸際ではないか」
と反論にさらに村中が皇族内閣不可能説を理路整然と解く。
これには大将連には一言もなかった。磯部に言わせれば「すっかり吾人の国体信念にまいった様子」を見せた。
駄弁な荒木もついに黙る。
阿部も真崎も西も何も言わない。
植田はこびるような顔で村中に何か話している。
林は青ざめた顔をしてうつむいている。
寺内はどうすればよいのかと言う。
磯部の遺書によると、この会見はまったくウヤムヤに終わってしまい、どちらもたいした意見を言えず単なる顔合わせになってしまったのは、へきとうの荒木の一言が有害であった。
『陛下』『陛下』でおさえられてお互いに口が利けなくなってしまったのだ。
もし、同席してた山下少将や満井、鈴木の内誰か一人が奇策をもってこの会見を維新的に有利に導くことが出来たら、天下はこの一夜で決まったのだ・・・。
さて、話を会見にもどそう。
反乱軍幹部は二項目を軍事参議官に述べた。
それは
| 一、 | 軍自ら粛正の範を示し昭和維新に邁進すること |
| 二、 | われわれを義軍と思うや、逆賊と思うや |
一はともかく二を見ると、まだ叛乱軍将校には自分らの立場が明確に分からなかった、一株の不安があったと言える。
またここで義軍と認めてもらえばほぼ勝ったようなものである・・という心理があったのだろう。
しかし、この質問に対し、杉山参謀次長の決意・回答は不明である。
ともかくこの日は叛乱軍の最盛期とも言える。
岡田首相を殺害された内閣は、後藤文夫内務大臣を臨時首相代理として存続はしていたが、もはや無いも同然。
(内相は内閣において重要な地位である、表向きは閣僚全員対等なのだが、内相の持つ権限を考えれば首相に次ぐ地位と言っても過言ではない。
それゆえ臨時首相代理に内相がなったと考えられる。
付け加えておくと、後藤文夫は統制派と結びつきがある親軍的官僚である。
首相代行が統制派寄りというのが面白い。
統制派、即ち省部の意見を尊重する・・などとは考えられよう。
少なくとも政府は統制派寄りだ、なにしろ自分の同僚らが殺害されたのだから反感を持って当然である。)
そして、軍事参議官さえ自分らの元へ来て、すごすごと退散していった。
さらには叛乱軍は第一師団長の下で帝都警備の任務を与えられた義軍である・・・というような気持ちであった。
しかし、敵は手強かった。
そう、石原莞爾作戦課長を筆頭とする統制派、参謀本部の面々をは着々と鎮圧に向けて動き出していた。