6-2.軍事参議官会議(軍事参議院)
午後2時、軍事参議官全員(朝香宮・東久邇宮両皇族も軍事参議官として参加)と川島陸相、杉山参謀次長、本庄侍従武官長、香椎東京警備司令官兼東部防衛司令官、山下軍事調査部長、村上軍事課長らは皇居東溜の間で非公式の軍事参議官会議(軍事参議院)が開かれた。
ちなみに当時の軍事参議官の名を列挙すると
荒木貞夫 真崎勘三郎 林銑十郎 阿部信行 西義一 植田謙吉 寺内寿一
である。
この会議で特筆すべきはやはり「大臣告示」である。
これが後に大問題となるのでよく覚えておいて頂きたい。
会議冒頭、杉山次長が
「軍事参議官の干渉は避け、三長官による処断」
云々を申し入れると、荒木大将らは
「もとより軍事参議官において三長官の職務遂行を妨害する意志はない。ただ軍の長老として道徳上、この重大時を座視するに忍びず奉公するものだ」
という趣旨を答えた。
会議席上でまず問題となったのは叛乱軍に対する対策をどうするかであった。
川島陸相が案を出した。
| 一 | 勅命を仰いで屯営に帰還すべく諭す |
| 二 | 聴きかざれば戒厳令を布く |
| 三 | 次いで内閣を組織する |
これに対して荒木は、川島案の前に我々はなすべきことがあるとし、
「軍事参議官一同が死をもって事態を収拾するから、お前達は原隊に帰れ。後国運の進展に努力するを得ん」
との主旨で説得し、これに応じないときは川島案のような勅命を拝し、これでも応じないときは討伐する。
なによりこの際最も注意すべきは左翼団体の暴動であると述べた。
また真崎も荒木に同調し、
「左翼団体の警戒に全力を注ぐを要す。これがため維新部隊(叛乱軍)をその警備に充つるごとくを取扱うを可とす」
と意見した。
つまり左翼警戒を名目に叛乱軍の占拠行動を正当化しようとしたのである。
こうして、参議官の鎮撫、原隊復帰を第一とする立場から「陸軍大臣告示」の原文となった「申合書」が作成された。
まず山下少将が一筆書き、それに植田大将がところどころに修正・挿入をした。
ここでの疑問点はなぜ山下少将が原案の作成をしたのかということと、会議の前に既に「申合書」は山下か他の誰かによって作られていたのではないかということである。
この問題の解決こそが事件の真の黒幕を明らかにするものであるが、依然として謎のままで今日に至っている。
軍法会議でも問題究明が行われなかった。
そして荒木大将が
「軍事参議官は全部こういうことだから兵隊をすぐ帰すように__お前青年将校の方へ持っていってくれ」
と言った。が、ここで
「これは筋が違う。権限がない軍事参議官がやってはおかしいではないか」
というもっともな意見が出た。そこで、
「陸軍大臣も同席していることだし、『陸軍大臣告示』という形でやってはどうか」という意見が出て川島が
「それでは陸軍大臣告示ということでよろしいのですね」と問うと全員うなずき、波紋を呼ぶ文章がここにできた。
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ここで、荒木大将の戦後の談話で重要なことが述べられているので記しておく。
「軍事参議官一同の意向を文章にしてこれを叛乱軍に示して鎮撫せんとしたのである。ところが朝香宮、東久邇宮の両大将もまた軍事参議官であってこの会議にも列席しておられたから軍事参議官一同の意向として発表することは皇室に累を及ぼす虞があるという意見も出たので同席の陸軍大臣川島義之大将の承諾を得て・・・」
となっている。
するとこの一連の軍事参議官の行動は単なる権限の問題ではない。
天皇の意志に反しているばかりか、天皇に累が及ぼすおそれさえある。
さて後に問題となる箇所は、第一項の「天聴に達せられあり」と、第二項の「行動」という部分である。
最初、申合書には「天聴に達し」となってたが、例の植田大将がそこに「あり」という文字を追加した。
これにより、まったく意味が違ってくることに気が付く。
| 「達し」 | 天皇に完全に申し上げてある。 |
| 「達しあり」 | ともかく申し上げてはあるが、その後のことはわからない。 |
この違いは大きい、なにより天皇が絶対な存在であった当時を考えて欲しい。
次の「行動」という文字は、後に「真意」という文字にいつのまにか変わっていて、それが今日の正文とされていることである。
「行動」→「真意」の変化には重大な意味を持ち、大問題となったのは言うまでもない。
| 「行動」 | 行動を認めることは今まで彼らが統帥を乱し、重臣を襲撃した事柄までも認めることになる。 |
| 「真意」 | 行動は別として(許す許さないを問わず)彼らの「本当の気持ち、精神」は認めるいう、漠然とした抽象的なものになり、あとでなんとでもその解釈は変更できる。 |
(※)また、最初は「至誠」だったのが「真意」に改められたものであり、「行動」なんて一言も上がってないという話もある。
だとすると、一体どこで「真意」が「行動」に変えられたのか、この間違いはどうして起こったのかが問題となる。
実際、叛乱軍に示されたのは「行動」の文字である。
また、叛乱軍にとって告示は陸軍の首脳に皇族も加わって宮中で作製されたということは下士官・兵はもちろん、将校に天皇の親裁を予想させるのに十分であった。
この「告示」をめぐって軍首脳と叛乱軍との溝が広がり、叛乱軍に不信感を抱かせ、後の奉勅命令を懐疑する原因となったのは否定できない。
この一件は事件の収拾をより困難にしてしまった。