3-3.事件の発端
武力決起の計画は、磯部を中心に昭和10年10月ごろから準備された。
しかし翌11年1月になっても田中勝中尉・河野寿大尉らを加えた数人が、岡田首相・斉藤内大臣を殺害して政変を起こすという程度の内容にとどまっていた。
相沢事件の公判が皇道派の主張を宣伝する機会に利用されていてもなお、5・15事件を下回る計画しかつくられていなかったのである。このことは、国民の支持がいかに少なかったかを物語っている。
磯部はすでに軍上層の意向を打診し、真崎・荒木だけでなく、皇道派に寄っていた山下奉文軍事調査部長らにも話をつけていたが、この時点ではまだ大部隊の使用が構想されず、地方部隊の同志との連絡もとられなかったところに国民の要求を反映することの出来なかったこの事件の特質がうかがわれる。
大部隊を動かす見通しは、むしろ統制派によってもたらされたのだ。
統制派は皇道派青年将校の牙城である第一師団を三月はじめに「満州」に派遣すると決定した。
皇道派はこれを、自派を一掃するための統制派の陰謀とみたが、統制派の思惑は皇道派に大規模なクーデター起こさせることにあったのは言うまでもない。
少なくとも戒厳令が下令される程度の・・・・・。
さて、この決定は、日露戦争以来東京を離れなかった第一師団の将校・下士官を動揺させた。
それは小隊長クラスの将校達が青年将校の会合に出席するという結果となって現れた。
こうして二月に入りようやく、下士官・兵までも動員できる条件がつくられた。
計画は二月中に実行に移さねばならない。
三月になれば第一師団が東京を離れるからだ。
磯部らの工作で歩兵第三連隊の安藤輝三大尉が部下と共に参加すると約束したのは、二月二二日のことであった。
磯部らは、この年一月から始まった相沢事件軍法会議が二月二五日に結審となり、真崎も出廷し、皇道派の立場の宣伝のヤマ場を迎えると判断し、二四日に至り、二六日早朝の決起を決意したのである。
また二五日には、なぜ自分たちが重臣・元老を襲撃するのかという理由を「蹶起趣意書」に宣明し、具体的方策を「陸軍大臣要望事項」として書き上げた。
この趣意書は二月二四日に野中四郎が原文を書き、二四日に北一輝宅で村中孝次が清書した。
これらは事件当日、「陸軍大臣要望事項」と共に香田清貞が川島陸相の面前で読み上げた。
クーデターの情報は、憲兵隊にも警視庁にも事前に入っていた。
二月のはじめのころに東京憲兵隊長に
「歩一では山口、歩三では安藤が週番司令になった時一番あぶない」
という情報が入っていた。
軍隊では週番制度があり、これは兵卒は駐屯地で生活するが、連隊長とかエライ人はみな自宅に夜は帰る。
しかし士官が不在となると何か問題が起こった場合、困るので、交代制で士官が駐屯地に居残るというものである。
もちろん一人でやるわけではなく、各分隊からこれまた交代制で出す下士官や他の士官で週番下士官・週番士官を構成し、朝夕の点呼、夜の見回り等を主任務とする。
そんな週番を統轄するのが週番司令で、夜連隊長が帰宅した後は実質的な連隊長となる。
確かに危険だ。
特に十九日には、三菱本社秘書課から
「栗原安秀中尉一派が二五日頃重臣襲撃を決行する」
との報告が憲兵隊にもたらされた。
しかし東京憲兵隊は軍首脳に護衛をつけ、青年将校に尾行をつけたのみで、クーデターそのものを未然に防ぐための対策は何一つとらなかった。
とはいえ二五日すぎ、いよいよ情勢逼迫とみた憲兵隊本部は、全国から300名の応援憲兵を東京に召集、東京憲兵隊の兵力と合わせて警備する「非常警備計画案」を策定し、坂本俊馬東京憲兵隊長から憲兵司令官へ上申した。
しかし司令官は病欠で代理の憲兵司令部総務部々長は「陸軍省が反対だ」という理由で、この案を握りつぶしてしまった。
そう、陸軍省を占めているのは統制派なのだ。
統制派は事件を待っていた・・・。
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