2-4.相沢事件

怪文書は直ちに陰惨な効果をあらわにした。
同年八月十三日、永田軍務局長が陸軍省の自室で憲兵隊長の報告をきいていると、皇道派の相沢三郎中佐がドアを蹴破り、「天誅!」と叫びながら斬りかかってきた。

永田は右手で刀を払おうとしたが一刀ののもとに切り下ろされた。
(一説には、三度斬り付けたが致命傷を負わせることができず最後には背中から刺突したとの話もある。)
永田は病院へ運ばれたが間もなく絶命した。

相沢は青年将校らと親しく、真崎の更迭に憤っていた矢先、村中らの怪文書を見せられ、永田の暗殺を決意したものである。
そしてこの事件ははからずも皇道派のメンバーの体質を露呈した。


相沢は感情家で激しやすい男で、怪文書やデマをことごとく信じ、憤激すると手段を選ばず、問答無用の行為に出た。しかもその信念は神懸かり的であり、軍法会議においても
「自分の行為は伊勢神宮のお告げに従ったもので犯罪ではない」
と主張するありさまであった。

林陸相はこの事件の責任をとって辞職した。
というか、いつ自分にもこのような凶刃が降りかかるのではないかと恐れたのであろう。
この事件後皇道派と統制派の対立が激化したのは言うまでもない。


ここで重大なのは永田は死んだが彼の主張する「対中一撃論」はその後も統制派に引き継がれ、皇道派を放逐した後は陸軍の主流を歩むことになったことだ。

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