2-3.教育総監辞任事件
統制派は、昭和十年八月の定期人事異動を機に、皇道派を陸軍首脳部から追い払おうと図った。
そのため元陸軍次官の柳川平助第一師団長、元憲兵司令官として手腕を奮った秦真次第二師団長を共に予備役編入し、変わって建川美次・小磯国昭中将・東条英機少将ら統制派幹部を陸軍首脳部に送り込もうとした。
永田率いる統制派の一辺倒だった林陸相はこれを受け入れたが、当時教育総監の地位にあった真崎は真っ向から反対した。
これに対し林陸相は一掃高飛車な態度をとって、例によって真崎嫌いの閑院宮参謀総長の同意を取り付け真崎を更迭してしまったのである。
後任には渡辺錠太郎が据えられた。
この事件で皇道派が軍中央部における行動基盤を完全に失い、村中・磯部らはクーデター計画に熱中するようになる。
2・26事件の大いなる伏線と言えるだろう。
そして彼らは”真相究明”を名目に各種の怪文書を流した。
文章は事件が
「天皇機関説を実行し、国体を破壊し、国軍を攪乱し、昭和維新を阻止せんとする元老重臣の大陰謀」
であると決めつけていた。
また永田は「統帥権干犯・皇軍私兵化」と許されない大罪を犯したと極言していた。
そして更迭後も軍事参議官の要職にあった真崎は、怪文書の取り締まりを要求する渡辺教育総監を押さえ、青年将校らと接触しては永田をこきおろすなど暗にクーデター計画をそそのかしていた。
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