2-1.永田と小畑 陸軍を皇道派と統制派に分割させた両雄
統制派と皇道派についてより詳細に説明する。
ドイツのミュンヘンの西南のボーデン湖の近くに「バーデンの森」というところがある。この森の中にバーデンバーデンという温泉郷があり、ここに大正十年十月二十七日、三人の日本人が宿をとった。
その3人とは
スイス駐在武官 永田鉄山少佐
ソ連駐在を命じられしばらくベルリンに足を止めている 小畑敏四郎少佐
慰労休暇を含み欧州に派遣された 岡村寧次少佐
三人とも37,8歳、男真っ盛りの少壮中堅将校である。
彼らは陸軍士官学校の第十六期生で、無類の仲良しである。
とくに永田と小畑は陸大も同期、ともに優等卒の英才である。
常に主席を歩みつつ、清濁併せ呑む人間的な魅力をもつ永田と、それに類する頭脳を持つ小畑、そしてその間に性格的にふくよかで、協調性に富む岡村が加わることで、不思議なバランスのとれた力強いトリオが結成していたのである。
彼ら3人が集まった目的は一つ、発案者は岡村で、一言で言えば
「現状打破はいかにすれば可能か」
を話し合うためである。ベルリンで岡村に会い、この提案を聞き、人一倍血の気の多い小畑はたちまち賛成し、それならスイスにいる永田も呼ぼうということになった。
徒党を組むよりも自力独行をモットーとする永田は、はじめ承知しなかったが、小畑の押しと岡村の説得に負けてバーデンバーデンにやってきたのである。
小畑がまず情熱的に論じ立てた。第一次大戦という史上例を見ない大戦争の結果、もはや国防という大事を、単に軍事面からみていられない時代が到来した。であるのに陸軍の現状はどうか・・・・。
陸相山梨半造、参謀総長上原勇作、教育総監秋山好古の3巨頭をいただき、全て長州中心の藩閥に固められている。
いかに有能なものであろうと、閥外の者は前途に大きな望みを託し得ないのではないか。
まずこの明治以来の大盤石を打破しないことには、高度国防国家は夢のまた夢である。
岡村が冷静にそれをうけとめ敷衍して説明する。
我ら少壮将校が一致団結し、まとまった力を持って突破する他はない。
永田は二人の話を聞きながら、2つのことを思っていた。
ひとつは第一次大戦におけるドイツの敗戦の教訓である。
戦術的な勝利をいかに積み重ねようが、結局は国家の全てを挙げての総力戦に勝たなければ国防はまっとうできない・・・という非情な国際的な現実。
戦争技術の高度化、複雑化、学問化、そして国民化をいかに図ればよいか・・・・・。
もうひとつは、ロシア革命の成功である。
明治40年の「帝国々防方針」の決定によって、陸軍の仮想敵となったソビエトが、今や軍事大国として現れた。
必然的に満蒙には暗雲が漂い始めた。
そればかりでなく思想敵としても影響力を及ぼしだしたから大変である。
忍び寄るソビエト共産主義国家の巨大な影、大戦の結果大きく勢力圏の変わった列強。
これは永田のみならず3人に共通した世界情勢認識でもあった。
こうした内外ともに切迫した状況下にありながら、陸軍首脳はのうのうと日露戦争勝利の夢をむさぼっていた。
彼らは日露戦争に出征した戦場の殊勲者ではあるが、感状とか金鵄勲章とかの精神的誇りにのみ生き、急激に変転しつつある情勢に対応しようとする意欲を失っているのではないかと、3人の意見は一致した。
また、3人が陸士十六期の卒業生というところに大きな意味がある。
日露戦争の実戦に参加できたのは第十五期の卒業生までであって、彼ら第十六期生は明治37年10月卒業、ごく一部を除いては弾丸の下をくぐらず、せいぜい後方勤務がいいところ。
つまり陸軍内部における戦後派である。
そこに焦りがあるとともに、彼らの団結を堅く結びつける要因もあったのだ。
そしてこの会合は『バーデンバーデンの密約』と呼ばれ、ここから昭和の陸軍史がスタートしたのである。
この話し合いで、
@派閥の解消→人事刷新
A軍政改革→総動員態勢確立
のために、積極的に同志を求め、相互に協力していくことを誓い合った。
これに翌28日には東条英機少佐が加わり血盟の輪はさらに強固となった。
そして、永田・小畑の名を慕ってたちまちに同志が形成された。
と言っても余り雑多な人間を集めると何かと面倒が起こりやすいということで、まず二人の目にかかった人材が集められた。
そして、研究会を名目として「二葉会」がつくられた。
これは第十五、十六、十七期から集まった人材で構成されている。
| 陸士第十五期 |
|
同第十六期 |
|
同第十七期 |
| 河本大作 |
土肥原賢二 |
東条英機 |
| 山岡重厚 |
板垣征四郎 |
渡 久雄 |
|
小笠原数夫 |
工藤義雄 |
|
磯谷廉介 |
松村正員 |
昭和に入って、永田・小畑に続こうと、さらに第十八期以下の志しある俊英が「一夕会」というグループを作った。
これで第二十五期までのほぼ目ぼしい人材が集まっている。
主要な人物をあげると・・
| 山下奉文 |
鈴木貞一 |
土橋勇逸 |
| 岡部直三郎 |
鈴木率道 |
武藤章 |
| 石原莞爾 |
牟田口廉也 |
田中新一 |
| 村上啓作 |
岡田 資 |
富永恭次 |
二葉会と一夕会は一緒に会合することもあったし別個の時もあったが、国策の論議から部内の人事まで忌憚ない論議を交わしつつ、陸軍内部の刷新のため陰に協力して影響力をひろげていった。
要は藩閥の壁を破り、同志を陸軍省・参謀本部・教育総監部の重要ポスト(※ 別組織編成表をご覧下さい。)にはめこみ、内部から合法的に革新していこうというのである。
さらには、ソ連・満蒙問題をいかに解決すべきかについても大きく論じあった。
岡村寧次の「日誌」によると、仮に部内的には合法であったとしても、彼らの動きは結果的に日本という国家を陰謀によってとんでもない方向にひきずっていったことが推察されるのである。
ほんの少し抜粋してみる。
【昭和二年】
一・一六 二葉亭で会合。出席者:永田、小畑、板垣、東條、岡村、江副。
六・二七 二葉亭で、山岡重厚、河本、永田、小畑、東條、岡村会す。
【昭和三年】
一・二九 小畑私邸で、永田、小畑、岡村、黒木親慶会す。
例えば、ここに出てくる河本大作大佐が、満州軍閥の頭領である張作霖を爆殺したのは(張作霖爆殺事件・河本事件)、実に昭和三年六月のことなのである。
しかも史実にあるように陸軍中央は、中堅将校たちの突き上げに動かされ、犯人は日本人にあらずと意思を統一し、単に責任者を行政処分(監督不行届)にしただけであった。
「岡村日誌」には、そうした突き上げの様がさまざまと以下に記されている。
【昭和四年】
二・一〇 二葉会、渋谷の神泉舘d。黒木、永田、小笠原、岡村、東條、岡部、松村、中野参集。
在京者全部出席。河本事件につき協議す。
三・二二 二葉会。爆破事件人事につき相談
六・八 二葉会、九名全員集合。河本事件につき話す。
以上はほんの僅かな抜粋だが、こうしてしばしば会合し、彼らが論じ合ったのは何であったろうか。
張作霖を殺したが、満州は張学良によっていぜん統治され、蒋介石の国民党の勢力とソ連の圧力とが南北から堰を切って浸透してきている。
このまま座視していれば、せっかく日露の戦いに勝ち、満州の広野に得た権益は無になるかもしれない。
明治天皇の皇謨は一片の昔語りとなろう。
もはや一人や二人の首脳を殺しても詮ないこと。
満州を軍事的に占領しない限り、真の高度国防国家建設の目的は達成されないのではないか・・・・。
そうした政略論であったと推察される。
こうして昭和四年から六年にかけて、二葉会と一夕会は談合と改革の突き上げを重ねていく。
それは昭和六年九月十八日、満州事変勃発のその日まで続けられたといっていい。
永田・小畑を核とする工作は完璧であった。
「バーデンバーデンの密約」は見事に実現されたのだ。
薩長中心の閥は勢いをみるみる失い、柳条溝付近でいわゆる「十五年戦争」の火蓋が切られた時の、省部の陣容は次のものであった。
| 陸軍省 |
| 軍事課長 |
永田鉄山 |
| 課員 |
村上啓作 |
| 鈴木貞一 |
| 土橋勇逸 |
| 補任課長 |
岡村寧次 |
| 徴募課長 |
松村正員 |
| 参謀本部 |
| 第一課長 |
東条英機 |
| 第二課員 |
鈴木率道 |
| 武藤 章 |
| 第五課長 |
渡 久雄 |
まさに陸軍中央に揃い踏みの感がある。
そして関東軍には高級参謀板垣征四郎、主任作戦参謀石原莞爾、奉天特務機関長土肥原賢二が配置されていたのである。
満州事変はその総意をバックとする謀略であった。
ちなみに小畑敏四郎は張作霖爆殺事件後の昭和三年八月まで作戦課長の重職にあり、満州事変の時は陸大の教官だった。
しかし、本来性格的にも正反対の永田と小畑、片や軍政畑を進み、片や軍令畑を進んだ二人。
温厚な性格の岡村が仲をとりつつ、ともにひとつの目標に向かって切磋琢磨しながら進むことが出来たのは満州事変までであった。
既に目的を達し、必然的に地位も上がり軍中央に進むとなれば、それぞれがより高位の将来を目指して行動せねばならなくなる。
かつての盟友が最大のライバルとなるのだ。
「バーデンバーデンの密約」から既に10年が経っている。
永田も小畑も将官への栄進は目の前である。
その昭和六年暮、荒木貞夫中将が教育総監本部長から犬養内閣の陸相に就任ときから二人の仲は一挙に悪化しはじめる。
だが、荒木の陸相就任は、二葉会と一夕会の軍人にとっては長年に渡り強く願望してきたことの実現である。
省部の実力者として主要ポストにまで昇ってきた彼らは、その申し合わせ事項を実行してもらおうとの期待に燃えて荒木を大臣に迎えたのだ。
それは派閥の解消であり、部内の粛正であった。
また満蒙問題を中心とする陸軍の新しい政策であった。
・・・にもかかわらず荒木陸相のしたことは・・・
まず手始めに陸大教官をしていた小畑の参謀本部作戦課長への復帰だった。
荒木と小畑は同じ対ロシアの専門家、互いに信頼しあっていることは周囲につと知れ渡っていたが、この人事はさすがに唖然とさせるものがあった。
小畑は張作霖爆殺事件当時すでに中佐となっていて、作戦課長をやっている。
このときの小畑の行動は凄まじく、あたりかまわず方針を決める作戦家としての本領を発揮し真一文字に推進したことから他の課との折り合いが悪かったという評判があった。
それが陸大教官への転出の理由の一つとみられていた。
その小畑を荒木が再び陸軍中央に呼ぶとは・・・・。
それほどまでに荒木・真崎の信頼は厚かった。
しかも実は小畑を長く作戦課長に置くつもりではなく、少将進級を待ち、作戦部長(第一部長)へ進めるための布石としての荒木の処置であったのだ。
荒木はその構想通り、満州事変以来半年、関東軍の陣容を一新する必要もあり、昭和七年四月に人事異動を断行した。
これは陸軍省軍事課長の永田を参謀本部第二部長(情報)へ、作戦課長小畑を第一部長にするつもりだった。
しかし小畑は
「第一部長はいまの古荘幹郎のままでいい、作戦上の重要な問題は全て俺が片づけてやる」
といい、あまり忙しくない第三部長(運輸通信)におさまった。
つまり小畑は古荘をお飾りで意のままに操れるロボットにしようとしたのだ。
そして後任の作戦課長に小畑は腹心の鈴木率道中佐をひぱってきた。
小畑が作戦課をでるとき、課員に対する挨拶は自信に満ちたものだった。
「統帥おおむね常道に復したるを喜ぶ、終わり」
これに対して新任の鈴木は
「正しきを踏み、しこうして正しきを踏む、終わり」
参謀本部は我々二人に任せておけと言わんばかりの高飛車ぶりである。
しかもこの時の荒木人事ほど、主義主張を同じくする者で陸軍中央の陣容を固めたものはなかった。
つまりこれが皇道派の集結である。
それは全て知謀の小畑の差し金と言われていた。
小畑は荒木の私設参謀長であり、また刀剣鑑定だけが取り柄の軍務局長山岡重厚をさしおいて彼こそが実質的な軍務局長であると噂された。
その荒木・小畑の前に立ちふさがったのが、かつての盟友永田鉄山その人である。
やがてこの対立はますます厳しくなっていった。
皇道派と統制派の対立はここから始まる。
この7年4月の異動で関東軍参謀副長となって、東京を去ることになった岡村は事態を憂いて荒木陸相と参謀次長真崎中将にずっと前から進言していた。
「私は補任課長としてこれだけは申し述べる。永田も小畑も近く少将に進級する予定だが、その進級後の職を、どうか同じ役所に置くことは厳にやめてほしい。同じ山に、性格の異なった虎を放つようなものである。危険この上ない」
しかしなぜか荒木・真崎は虎を同じ山に放つ・・・・。
この対立の模様は戦後に書かれた岡村の回想録に対立から分裂、そして抗争までが刻々と記されている。
では少し抜粋・・・
「昭和七年六月、帰京してみると、すでに部長会議で永田と小畑が激論した噂を聴く」
「七月中旬、小磯陸軍次官は私に対し、密かに第一六期はまさに陸軍の中堅であるが、いまやその分裂の兆候があるのは甚だ遺憾である。これが調整に当たるべきは君より他にない、大いに努力してくれ、と言われた」
「昭和八年八月、一夕会の下層の人々から永田・小畑の間がようやく険悪になってきたということを洩らされた」
「昭和九年四月二十三日、招かれた宴に往ってみると永田、磯谷、板垣、東條、工藤の5人のみで、小畑その他のものとは分袂したのだという。極力融和再結の必要を説いたが気性の激しい東條などは、『不平ならば向こう側へ行け』などと極言し、もはや復元の見込み無い」
「同月二十七日、小畑と約三時間懇談したが、その永田一派に対する反感は熾烈で、とうてい妥協を許さない底のものであった。」
言うまでもなく
統制派=永田一派
皇道派=小畑一派(荒木・真崎)
という対立図式である。
そしてそれは人事の争奪を含めて陸軍中央の権力争いと説かれる。
たとえば、永田の腹心とも言える東條(英機)編成動員課長が、用事があって鈴木率道作戦課長を呼んだところ
「同じ課長だ、用事があるならそちらから出かけてこい」
と部下に返事させて東條を激怒させた。
というのも東條は陸士で鈴木の5期上なのだ。誰でも怒る。
ところが鈴木は小畑の腹心なのである。
ついに二人は廊下で会っても口をきかなくなった。
また、皇道派と統制派の派閥抗争には陸軍の機密費が絡み、事態は一層深刻になった。
2・26事件で命拾いした首相岡田啓介はのちにこう述べている。
「なぁに、皇道派とか統制派とか、やかましいことをいっても、本当は陸軍の膨大な機密費の取り合いさ。その頃の陸軍の機密費は百万円、海軍は二十万円くらいだったかな。その機密費をどちらが握るかという派閥の争いだよ」
さて、この永田と小畑の対立は単に権力争いだけであろうか。
否。それだけではあまりに浅はかな歴史認識となってしまう。
彼らの対立には国防の政策上の大問題、すなわち対ソに関する意見の対立があったのだ。
それが決定的となったのは昭和八年六月のことである。
このとき陸軍中央は画期的な軍政改革の断行に先立ち、最も危険な仮想敵を想定し、これに対する戦略戦術を議論する秘密会議を開いた。
ここで永田と小畑が正面衝突し、一気に爆発、互いに一歩も譲らなくなっった。
仮想敵がソ連という点は誰も反対しなかった。
関東軍の石原莞爾作戦参謀の戦略にのっとり、満州事変→満州国建設→国防国家完成という構想を陸軍中央も抱いていたが、成ってみるとそれは夢に等しかったと再認識せざるを得なかった。
より長大となった国境線。
そして共産革命の成功に伴う以後の五ヶ年計画などで極東赤軍は飛躍的に強化され、外蒙古はその侵略を受けソ連の勢力圏と変わっている。
そして不凍港を求めての東進は帝政ロシア時代からまったく変わっていない。
この強敵を前に日本の国防はいかにあるべきか・・・・で激論が交わされたのだ。
”作戦の鬼”の小畑は長年に渡って考え抜いた戦略戦術をここぞとばかりに熱弁した。
今ならまだ間に合う、あまりに極東ソ連軍が強力にならぬ前に、機会をとらえてソ連軍を撃破しておく。
それは北方最重点の予防戦争論ともいうべきものであった。
そのためには
いかに抗日の姿勢をみせようとも中国とは事を構えず、英米とも静謐を第一義とする
という考えである。
会議は小畑の論にひきずられていった。・・・がそのとき永田第二部長が断固たる反対論を述べ始めたのである。
「ソ連に手を出せば全面的な戦いとなる。今の日本の国力と軍事力をもってしては単独では到底ソ連には抗しえなくなっている。
それよりも、満州事変の戦果を拡大して、謀略をも併用した上でまず抗日・侮日の方針を堅持する中国との問題を処理することが緊要である。
すなわち中国を屈服させ、大陸に後顧の憂いを除いた後にそれらの資源を利し国力を増進した上でソ連に当たるべきである」
確かに中国との関係は日に日に悪化の一途をだどっている。
そのときに抗日に燃える中国をそのままにして、対ソ戦の遂行が困難であることは明瞭すぎている。
「まさか信ずる永田が!」の思いに駆られた小畑は猛烈な勢いで反論した。
「ソ連一国を目標とする自衛すらが困難と予想されるのに、さらに中国を敵とすることなどとんでもないことである。
中国を屈服させるべく全面的に戦うことは、我が国力を極度に消耗させるばかりでなく、それは英米の権益と衝突し、世界を相手とする全面戦争となる恐れがあろう。
短時日に屈服、戦争終結など至難のことである。
等しく東洋民族たる中国とは実力によらず、あくまで和協の途を求めるべきである。それよりもソ連がより強大となる以前に、好機を求めてこれを打倒すべきである」
現実的に見るならば小畑の説のほうが正しいと言えようか。
中国との戦争は国力の消耗が激し過ぎ、結局泥沼化してしまうという認識を抱いているのは彼の他にも石原莞爾などが居た。
「ナポレオンの二の舞である」と・・・。
ただし、対ソ戦の認識の甘さがある。
小畑論の背景には、彼自身の抱く強烈な反共主義があった。
第一次大戦のさなかロシア駐在を命じられ、ロシアの対独戦を直接目のあたりにし、さらにロシア革命とその内乱を体験した小畑には、これからの日本の対外政策は対ソ一本にしぼるべきという信念が強くこもっていた。
もし中国などと敵対していれば、その間にソ連はますます強大となり、日本の自衛が不可能となったところで南下を策してくるだろう。
国力を消耗し、時を無駄に消費してからでは遅すぎる。まだ戦えるうちにソ連を討たねばならない。
対する永田の主張は北守南進の「対中一撃論」というものだった。
中国は一撃を加えれば屈服するなどという、日清戦争の認識をそのままとした甘い考えである。
中国国民政府の抗日政策はいわば不変の国策であり、対ソ戦が起こったときは中国は対日参戦してくるのは避けがたい。
だからこそ将来の対ソ戦に備えてまず中国に一撃を加えて、蒋介石政権の基盤を挫く必要があるという硬論であった。
理想的な展開ではあるが、現実離れしているという感が否めないところである。
こうして第一回の陸軍中央の合同会議は紛糾した。
一旦はまとまりかけたのだが、永田・小畑の応酬で結論は遠ざかってしまった。
その後に第2回目の会議が開かれたが、永田は公用旅行を理由に欠席、小畑を憤慨させる。
このとき、一応の結論らしいものが出来たが、どうも不完全なものであった。
対ソを重点に置く者と対中国を優先する者など陸軍の戦略は分裂したまま統一されることはなかった。
この時をもって永田と小畑は完全に袂を分かった。
さらに永田・小畑の対立はこの会議と前後してはじまった北満鉄道(中ソ合弁)の買収交渉がからんで、さらに激化した。
買収すべしとする永田と、一銭もつかわずに入手できると主張する小畑とがここでも数時間も大激論して相譲らなかった。
小畑派が、
「永田は北満鉄道をバカげた高い額でソ連から買い上げるばかりでなく、軍需工場育成の名目でこの金を財閥にバラまき、彼らと組んで利潤を貪ろうとしている。しかもこの金は国民の血税だ。その金でソ連の軍事力をかえって充実せしむることになり、それによって造られたトーチカは、やがていつの日にか我が将兵の血を持って攻撃せねばならないものとなるのだ」
と誹謗すれば、永田派の方は、
「小畑は神懸かり的な男で、せっかちな対ソ主戦論者だ。戦争狂だ。その対ソ対ソ予防戦争論なんて底の浅いなんの根拠もないものだ。ソ連討つべしと叫んでいるが、玉手箱を開いてみれば、戦略も戦術もないお粗末さだ」
とやり返すという状態になった。
やがて皇道派と統制派の対立は喧嘩両成敗ということで一応はケリがついた。
昭和八年六月、参謀総長閑院宮(皇族)の意向で、真崎次長の転出でを契機に小畑は一つの有力な背景を失った。
その年の八月には永田も小畑もそれぞれ旅団長となって参謀本部から転出する。
二人の対立に手を焼いた荒木陸相の腰の引けた処置と言える。
またその荒木も翌九年一月には、大酒の挙げ句肺炎を起こし、陸相を辞任することになる。
小畑の後ろ盾はこれでなくなってしまった。
さてこれから統制派の時代が始まる。
荒木・真崎の去った後の陸軍は荒木に変わって陸相に就任した林銑十郎と、真崎嫌いの閑院宮参謀総長の下で軍務局長としてアッという間に陸軍省に戻ってきた永田鉄山が牛耳っていくことになる。
永田軍務局長実現のため東條が目に余る運動をしたため、一応は林陸相も東條を旅団長として久留米に飛ばさざるをえなくなる。
東條は久留米から毎日、時には日に三度も永田に手紙を出し、小畑・鈴木への他日の復讐の決意を述べた・・という裏のエピソードを残しながら永田中心の統制派の時代が始まるのである。
林陸相は永田一辺倒となった。
軍務局長として近衛文麿の朝飯会に出席するなど政治的に動く永田のあり方に対し、陸大校長としてひたすら作戦研究に全精魂を打ち込む小畑は、たえず批判的であったという。
だが小畑には陸軍中央に復帰する目はほとんどなかったのだ。
二人の対立はひとまず収まったが、統制派と皇道派の対立は根強く残っていた。
ここからは統制派と皇道派の対立を書いていく。
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