1-2.統制派について


 「統制派」の名前は、三月事件・一〇月事件など青年将校によるクーデター計画を、軍の統制を乱すものとして中止させたことからおこったものである。
橋本欣五郎らの1931年(昭和6)三月蜂起の計画に反対したのは、永田鉄山陸軍省軍事課長、岡村寧次補任課長らであり、関東軍の石原莞爾も同様の態度をとった。
とくに影響力の大きかった永田がこの態度をとったのは、宇垣閥が軍政部門に大きな力を持っていたことと、
「軍部以外の一般世論までもが「満蒙問題」の武力解決に同意させる情況」をつくり、総力戦体制を確立したいと望んでいたためである。

 永田は石原に対し「柳条溝事件」をひきおこすことにあらかじめ合意を与えていたが、それは
「我が国情はむしろ速やかに国家を駆りて対外発展に突進せしめ、途中情況により国内の改造を断行するのを適当」
  (※石原莞爾「満蒙問題私見」より)
と考えたからで、そのために軍隊の規律が乱れることを警戒したのである。

 統制派の「国家改造」の方針を示したのは1934年(昭和9)10月、永田軍務局長在任中に陸軍省新聞班が発行した「国防の本義と其強化の提唱」と題するパンフレットである。
「国防国家建設」の必要性を説いたものであるが、「財政に経済に、外交に政略に、将た国民強化に根本的の建て直しを断行し、皇国の有する偉大なる精神的、物質的潜勢を国防目的のため組織統制して、之を一元的に運営」することが最大の急務であるという。
要は先に触れたように、永田が欧州戦線で見てきた総動員態勢を日本でも行い、すなわち戦争に全てを集中し統制する体制をつくれということである。
そして、「国家を無視する国際主義、個人主義、自由主義思想を芟除(雑草を刈り取ること)」すべきであると、思想統制の強化を主張した。

 この内容だけ見ると、皇道派の主張と根本において違いはない。ただ、皇道派はやみくもに対ソ主戦論を唱えるのに対し、統制派はそのために軍事・政治・経済の全てに渡り、一応ソビエトと対抗できる態勢を築き上げることが先決だとする。
また皇道派は、軍閥・財閥・重臣閥の全てを敵視し、テロやクーデターでこれを倒すことのみに熱中するが、統制派は「満州国」建設や国家総動員態勢をつくるために、右翼団体国進会を背景とする後藤文夫らの親軍的官僚や、満州進出を狙う野口財閥などと結びつき、それなりの一定の見通しの元に政策を進めていった。

 しかし、統制派も国家総動員態勢を短時日のうちに確立し、陸海軍備をバランスをとりながら整備していくことは到底不可能であった。日本資本主義の脆弱さと矛盾の深刻さがそれを許さなかったのである。

そこで、皇道派にクーデターを起こさせ、その機に乗じて軍部独裁政権を樹立しようとはかったのである。
林銑十郎が陸相に就任し、統制派が軍政部門に進出しつつあるにもかかわらず、統制派の手で士官学校事件や第一師団の満州派遣計画が強行され、皇道派のクーデターに対する挑発がなされたのはそのためとみるべきであろう。

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